「洞察」とは、突然新しい方法で問題と向き合う能力である
一般のビジネスパーソンにもデータを活用する力が求められます。なぜならば、現場力とデータは不可分だからです。例えば、マーケティング施策を考える場合、消費者行動の洞察とデータからの考察という、2つの思考が融合することで、新たな仮説が生まれます。
社会人大学院に2年間通って、データサイエンスをビジネスに活用するために必要な能力は、統計学に関する知識でもRやPythonなどの言語でもなく、事象に対する「洞察」だと気付きました。
マーケティングも同様です。大先輩と対談させて頂き、ヤクザ映画風に表現するなら「絵図を描く」ために様々な知識・経験が求められますが、もっとも重要なのは「洞察」であると痛感しています。
ただ、この「洞察」を言語化するのって結構難しい。オシャレな人は「アイデアを生み出す源泉」と表現していて、なるほどなーと思いました。
辞書には「物事を観察して本質や奥底にあることを見抜く」と書かれています。ちなみに、同じ辞書には「観察」に「現象を自然状態のまま客観的に見る」という意味があると書かれています。
2つの言葉を繋げると「客観的な視点から本質を見抜く」ことが洞察と言えるでしょう。本質が見える=カラクリが見えるから、何をどう動かせば良いかが分かっていて、だからこそアイデアが生み出せるのでしょう。
この数年間、私は「洞察」という言葉を、そのような意味合いで使っていました…が、言葉の由来を調べていくにつれ、強い違和感を抱くようになったのです。
元々、仏教用語に「観察」と書いて「かんざつ」と読む言葉があります。智慧を使い対象を正しく見極める、という意味です。智慧とは「物事を正しく捉えて、真理を見極める認識力」を意味しており、要は「観る」と同義だと言えるでしょう。
心を集中させ、阿弥陀如来のお姿や浄土のありさまを克明に心に映すことを「観」と言います。ありさま自体は目で見ているのに違いありませんが、なぜ「見」と言わないかというと、ものごとの表面的な有り様を突き抜けて内在する本質を見通すことを「観」と表現するからです。
ちなみに瞑想は、心の働きを沈めるサマタ=「止」、物事をあるがままに捉えるヴィパッサナー=「観」、止観の働きを指します。サマタ瞑想だけではリラックスに過ぎないので、重要なのはヴィパッサナー瞑想である、とする説もあるほどです。
すなわち、観察には本来「本質を見抜く」とする意味があるのです。洞察が「物事を観察して本質や奥底にあることを見抜く」という意味なら、それは「頭痛が痛い」みたいに同じことを2度繰り返すニュアンスになってしまいます。
では、洞察とはどういう意味なのでしょうか?(いや、まぁ、冒頭も冒頭に答えを書いてしまっているのですが)
データサイエンスにしろ、マーケティングにしろ、わたしが重要だと痛感した「洞察」の意味を言語化すると、どう表現できるでしょうか?
名詞の洞察と、動詞の洞察
自分のkindleで「洞察」と検索すると、主に「洞察を得る」あるいは「洞察する」という表現が大量にヒットしました。
話はそれますが、kindleで全書籍検索をすると、ある特定の言葉がどのような意味合いで使われているか知れるので、すごく便利ですYO!
洞察を得るとは「深い気付きを得る」のような意味合いで、洞察という言葉が名詞として使われています。一方で、洞察するとは「本質を見抜く」のような意味合いで、洞察という言葉が動詞として使われています。
ちなみに、洞察は英語で「insight」と表現します。様々な場面で使われますが(もちろんマーケティングもその1つ)、Spirituality(精神性)という意味も持っており、ヴィパッサナー瞑想は英語で「insight」と表現します。
仏教色を排除した瞑想をマインドフルネスと表現しますし、インサイトメディテーションとも表現します。
すなわち、本質を見る = 観 = ヴィパッサナー = insight = 洞察(動詞)と、巡り巡って意味が成立しているのです。
「insight」=「洞察」とする訳に「ちょっとしっくり来ない」と思っている人は、どちらかと言えばマーケティングとしての「insight」に思考が引き摺られ過ぎているようです。仏教的観点からすれば「しっくり来る」のです。
ちなみに、洞察にはPsychology(心理学)な意味も持っています。学習心理学としての洞察には、問題を構成する要素間の関係と構造を理解することで解決に至る学習過程という意味があります。要は、特定の原因と結果を紐付けて気付く工程とでも表現しましょうか。
洞察については、ドイツのゲシュタルト心理学者であるヴォルフガング・ケーラーが行った「チンパンジーの実験」が有名です。
まずチンパンジーを檻の中に入れ、檻の外の手の届かない場所に好物のバナナを置き、チンパンジーの手の届く範囲に短い棒を置きました。続いて、檻の反対側の外に長い棒を置き、短い棒を使って長い棒を引き寄せる事ができるようにします。
さて、チンパンジーは、短い棒を使って届かない場所にあるバナナを引き寄せようとしますが何度も失敗。しかし、檻の中を歩き回ったり、周囲を見回したりしているうち、突然短い棒を使い、檻の外の反対側にある長い棒を手繰り寄せます。そして長い棒を使って、目的のバナナを手に入れることに成功するのです。
ゲシュタルトとはドイツ語で「形態・形、全体」を意味する単語です。漢字が突然崩れて見えることをゲシュタルト崩壊と呼びますよね。ゲシュタルト心理学とは「知覚は要素に分離・還元することができない全体的な枠組みによって生じるもの」という考え方を持ちます。
チンパンジーが「短い棒」と「バナナ」から、全体を見て「長い棒」に気付く = 洞察(名詞)。これこそ、各要素を全体として認知して、初めて問題解決に至った洞察事例と言えます。
動詞としての洞察(本質を見抜く)はSpirituality(精神性)寄り、名詞としての洞察(深い気付きを得る)はPsychology(心理学)寄りだと考えれば良いかもしれません。
繰り返しますが、「insight」=「洞察」とする訳に「ちょっとしっくり来ない」と思っている人は、「insight」をマーケティングに閉じ込めて解釈している…と記載しておきます。
ゲシュタルト心理学で理解する「洞察」
チンパンジーが突然に長い棒の活用に気付くように、洞察とは、突然新しい方法に気付き問題と向き合える問題解決能力を意味しています。そこで、洞察にまつわる3つの問題を提示しましょう。
1つ目はドゥンカーの「ロウソク問題」です。お題は簡単で「コルクボードの壁にロウソクを固定してから点火する」だけです。ただし、溶けたロウが下の地面に滴り落ちないようにしなければいけません。この問題を解決するにあたり、被験者はロウソク以外に、1束のマッチと、箱に入った画鋲の使用が認められています。
(画像はwikipedia「ロウソク問題」より引用)
さて、皆さんなら、どうするでしょうか。溶かしたロウで、ロウソクとコルクボードをくっ付けますか?
…。
……。
………。
正解は、画鋲の入った箱をコルクボードに画鋲を使って刺し、その箱の上にロウソクを立てる、でした。
壁にロウソクを固定するとは言ったが、くっ付けるとは表現していない。言葉の引っ掛け問題のような気もするが…。
この問題は、使用できるアイテムは「マッチ棒」と「画鋲」と捉えるか、画鋲の入った「箱」も含めるかが重要な鍵です。チンパンジーの問題同様に、全体の枠組みに気付くか否かです。
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2つ目は「ナイン・ドット問題」です。お題は簡単で「下に示された9つの点を、一筆書きで、4本の直線で結ぶ」だけです。だけなんですが、これが難しい。
なぜなら、外周を線で囲うだけで4本の直線が描けてしまうからです。どうしても真ん中の点が通らない。
さて、皆さんなら、どうするでしょうか。
…。
……。
………。
正解は、こうすれば4本の直線で9つの点を結べます。
外周を突き抜けて描けば良かったのです。「ナイン・ドット問題」は、提示されたお題を見て、線を引く枠の限界が「ドットまで」だと考えている限りは永久に解けません。
「空間把握」とも評されますが、どちらかと言えば「心理的制約」の撤廃と評する方が適しているかもしれません。
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3つ目は「Remote Associates Test(遠隔性連想検査)」です。お題は簡単で「提示された単語から共通点を見つける」だけです。ある種、昔流行った「あるなしクイズ」の「"ある"のみ」ようなものです。
例えば「異」「文」「破」の共通点は「論」です。異論、論文、論破。こういうクイズ、今はよくテレビ番組でやってますよね。そこに無いものに気付くという意味では、言語能力ではあるのですが、無いものを補完してあるように見て因果を見極める能力とも言えます。
「Remote Associates Test(遠隔性連想検査)」については、参考になる論文が多数あるので、熟読をお勧めします。
日本語版 Remote Associates Task は洞察を測定するか?
https://www.jcss.gr.jp/meetings/jcss2020/proceedings/pdf/JCSS2020_P-68.pdf
日本語版 Remote Associates Test の作成と評価
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjpsy/84/4/84_419/_pdf
「ロウソク問題」「ナイン・ドット問題」「Remote Associates Test(遠隔性連想検査)」のいずれも、解決すべき行動が突然現れる「洞察」の具体例として有名です。
冒頭、オシャレな人は「洞察」を「アイデアを生み出す源泉」と表現していると触れました。3つの問題を振り返ると、まさに「一気に視野が開けて解決に至る」点において、アイデアを生み出す源泉と表現できるでしょう。
「洞察」から生まれるアイデアの四段階
「洞察」と「アイデア」が紐付いて語られるのは、ジェームス・W・ヤングの「アイデアのつくり方」の影響が強いでしょう。
第一 資料集めー諸君の当面の課題のための資料と一般的知識の貯蔵をたえず豊富にすることから生まれる資料と。
第二 諸君の心の中でこれらの資料に手を加えること。
第三 孵化段階。そこでは諸君は意識の外で何かが自分で組み合わせの仕事をやるのにまかせる。
第四 アイデアの実際上の誕生。<ユーレカ! 分かった! みつけた!>という段階。そして
第五 現実の有用性に合致させるために最終的にアイデアを具体化し、展開させる段階。
ヤングは、アイデアが誕生する過程を説明したものの、第三の孵化から第四の誕生まで、説明しているようで説明できていない…と手厳しく評価する人がいます。確かに、第三〜第四はジャンプしているように感じます。
一言で表せば、名詞としての「洞察」 = 深い気付きを得ていますが、再現性に欠けるように見えます。「第四の段階を経験することはまず確実」と言っても、それは「信じる者は救われる」みたいな話になってしまう。
アイデア作成のこの第三段階に達したら、問題を完全に放棄して何でもいいから自分の想像力や感情を刺激するものに諸君の心を移すこと。音楽を聴いたり、劇場や映画に出かけたり、詩や探偵小説を読んだりすることである。
(略)
諸君が実際にこれら三つの段階で諸君のすべきことをやりとげたら、第四の段階を経験することはまず確実である。
どこからもアイデアは現れてこない。
それは、諸君がその到来を最も期待していない時ーひげを剃っている時とか風呂に入っている時、あるいはもっと多く、朝まだ眼がすっかりさめきっていないうちに諸君を訪れてくる。それはまた真夜中に諸君の眼をさますかも知れない。
森岡さんの書籍にも、まさに「ユーレカ!」な場面が描かれています。夢で見たと語っている通り、まさに「真夜中に諸君の眼をさま」したのです。
ヤングのアイデア論には原著があります。書籍内で参考文献にしたグレーアム・ウォーラス「思考の技術」です。ただ、実際にはウォーラスもヘルムホルツを参考にしており、創造の歴史の奥深さを感じます。
偉大なドイツ人物理学者ヘルムホルツは、一八九一年に自らの七十回目の誕生日の祝宴でスピーチを行い、自分の最も重要な新しい思考がどのようにやってきたかを説明した。以前にこの問題を「あらゆる方向から」調べたところ、「…すばらしいアイデアは予期しないときに、努力してではなく、インスピレーションのようにやってくる。私に関していえば、精神が疲れていたり、作業机に向かっているときに浮かんでくることはない…とくにやってきやすいのは、天気の良い日に森深い山の中を歩いているときだ」。
ここでヘルムホルツは、新しい思考が形成される三つの段階を提示する。第一の段階は、とりあえず<準備>と呼ぼう。そこでは問題が「あらゆる方向から…調査される」。第二の段階は、その問題を意識的に考えていない状態で、これは<培養>と呼ぼう。第三の段階は、「すばらしいアイデア」が現れ、またそれに先立つか伴うかしていくつもの心的出来事が浮かんでくる段階だ。これを<発現>と呼ぼう。
準備、培養、発現はそれぞれ、ヤングの第一〜第四と合致しますね。
グレーアム・ウォーラスは、それぞれの段階が「たえず互いに重なり合う」「同じ問題を検討する場合でも、精神は無意識的にそのある側面を<培養>しながら、別の側面の<準備>をしている」と記載しています。
加えて、このようにも記載しています。
いくつかの同種の問題がしばしば頭の中にあり、そのすべてにおいて内発的な準備の作業がすでに行われたか、今現在行われているところで、そのどれかが<発現>の段階に達すれば解決策が自ずと現れてくるかもしれない。
すなわち、私たちの脳は自動的に問題解決する機能を持っているのです。ウォーラスはそれを<予兆>と表現しました。「<予兆>がやがて<発現>のときに近付くにつれ思考の言語的明晰さが増してくる」と記載しています。
まるで時計の短針と長針がそれぞれ進んで、やがて<予兆>が<発現>に重なり合うかのようなものなのでしょう。
すなわち、問題は既に目の前に提示されていて、後はどうやって解くかという場面になっても解決策が出ない場合、それは「観察」をしてあるがまま見ていないのであり、見抜けさえすれば、あとは見落としていた部分も含めて全体を見れば気付ける…そう考えれば良さそうです。
ウォーラスの言う培養やヤングの言う孵化とは、無意識の中にあって観察している状態なのかもしれません。
そして<予兆>とは、観察が欠けたまま対象を見ることで、手が届きそうで届かない、あと何かがあれば上手くいくのに…といった、「観察が欠けていることに気付く状態」を指すのだと解釈します。
巨大な迷路があったとして、とりあえず前に進む。それが人間の脳にできることであり、<予兆>と呼びます。
ところが2Dだと思っていた迷路が実際には3Dで、橋を渡って地下を潜らないと出口に辿り着かないとします。2Dだと思い込んでいる状態を「バイアスにかかっている」と表現すると良いでしょう。「観察」を通じて、視線を傾けるのではなく、迷路そのものを傾けて初めて3Dだと気付く…。
気付いた後には、もう気付く前には戻れません。それは、観察前が「知らないことを気付けなかった」のに対して、観察後が「知らないことに気付く」であり、1度知った以上は知らなかった状態に戻れないからです。例えば間違い探しの絵の答えを知った後は、どんな難問も直ぐに分かるでしょう。
観察と洞察
観察と洞察は一体です。
以前は、私は2つを組み合わせて「客観的な視点から本質を見抜く」だと考えていました。しかし、今は違います。「本質を見抜くことで知らないことに気付き、突然新しい方法で問題と向き合える能力」こそが真の意味だと考えます。
それは例えば、引き出しを増やすことかもしれません。今まで行かなかった場所に行き、今まで出会わなかった人に出会い、今まで読まなかったジャンルの書籍を読む。
先日、あるマーケターの方と対談させて頂いた際にも「内に籠もるな、外に出ろ」と指導いただきました。今にして思うと、それは洞察のための観察は内にはないよ、という意味合いだったのでしょう。
というわけで最後に「外に出る」ためのウェビナーの宣伝です。(おい
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JX通信社では毎月、「消費者理解」をテーマにスゴいマーケターが集まるウェビナーを開催しております。第10回のゲストはインサイトフォースの山口義宏さんです!
開催は2022年1月26日20時〜21時です。
(2022年から「見逃し視聴」を始めました。ウェビナー申込者に限って、生放送翌日から2週間限定で当時の配信を視聴できます)
というわけで、本年もよろしくお願い申し上げます。