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変わらない日本と「経済優先」の議論

新型コロナウイルスの問題が取りざたされるようになって早くも半年以上が経った。残念ながら未だに有効な治療方法が確立されているという状況ではないようであり、またワクチンも急ピッチの開発が続いていると報道されているが、まだ開発途上という段階だ。この状況がいつまで続くかということについては、多くの人が様々な観点から予測をしているが、実際にどうなるかということは、蓋を開けてみなければ分からない、というのが実情だと思う。

ただ一つ確実ではないかと思うのは、2020年代以降この新型コロナウイルス(COVID-19)に限らず、他の感染症についても世界的な流行が以前から懸念されており、COVID-19の問題が解決したとしても、また他の感染症が出てくる可能性が残されている、ということだ。

そうであるなら、私たちはCOVID-19だけではなく、今後の感染症に対しても適応できる社会のあり方や生活のあり方を考えていくべきだろうと、個人的には思っている。

当然、そういう中でも私たちは経済活動を営んで行かなければいけないことは間違いがない。昨今、経済優先か人命優先か、といった議論を見かけることがあるが、私は経済優先に対して必ずしも反対ではない。ただ違和感があるのは、経済優先と言った時に、いわゆる「コロナ前」の経済のあり方を前提にしている議論がほとんどではないか、と感じられることだ。

経済優先と言ってもこの新型コロナウイルスに対応したもの、あるいは将来の感染症も踏まえた形での新しい経済のあり方を創造・発明し、それを優先させていくということであれば私は大賛成である。しかし「コロナ前」の経済のあり方がそのまま今後も通用するのか、そういう経済を優先すべきなのか、ということについては疑問を持たざるを得ないところがある。

そんなことを思っていたら、ユーグレナの出雲さんの、とても印象的なやり取りが記事になっていた。

経済優先といっても、新しい経済をまず創造しなければいけないのでは、そう簡単ではないということは十分わかっている。ただ、私たちが考えなければいけないと思うのは、人的にも資金的にもリソースが限られているこの日本で、今後そのままでは通用しないと思える従来型の経済活動に関してリソースを投入することは、国家全体として見た時に、必ずしも適切な判断と言えないのではないかということである。

最近様々な著作で鋭い指摘を行っている山口周さんが、教育改革がなぜ失敗し続けるのか、という問題について興味深いブログを書いていた。

ここで指摘されている問題点は、単に教育改革にとどまらず、出雲さんが先ほどの記事で答えているように、失われた30年が経っても、なぜ経済が変わらなかったかという理由に通じるものがあると思う。

いつの時代のことかと思ってしまうが、日経新聞にも、21世紀も20年が過ぎようとしている今の出来事として「村八分」の文字が表れた。

この夏、地方の親たちが子どもや孫の帰省を控えさせたのも、「村八分」を恐れてのことだという。この国では、今も村八分が昔と変わらずに根付いていることを、新型コロナウイルスが図らずも表面化させてしまった。

私たちは変わることが苦手であるし、もっと言えば変わることを必要としない民族あるいは国であるのかもしれない。そういう中で、新しい経済がどのような形で立ち上がりうるのか、あるいは立ち上がらないのか、ということについては、残り少ないこの夏の宿題として、もう少しじっくりと考えてみたいと思う。

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