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DiversityからDE&I、そしてその先は?

ダイバーシティ&インクルージョン(“D&I”)という概念が、産業界の表舞台に登場して、久しい。組織の多様性を経営に生かすため企業でも盛んに取り上げられるし、啓発セミナーの類いは枚挙にいとまがない。

特にD&IのI, インクルージョンが大切だと言われている。多様性だけあっても、少数派が包摂されず、その視点が活かされないなら片手落ちということだ。確かにその通りなのだが、個人的に「インクルージョン」という言葉にかすかな違和感を持つ。

違和感の奥底を探ってみた。まず、インクルード=含む、という動詞には、一元的な多数派対少数派という構造と、それに伴う「上から目線」を感じる。職場でいえば、「男性(多数派)が女性(少数派)を含んであげますよ」。そのためには、少数派が多数派のしきたりに従うことが暗黙的に示唆される。しかし、少数派の視点を生かすためには、少数派が迎合してしまっては本末転倒だ。

さらに、一元的なインクルージョンは、本来は無数の多次元でなる個人を捉えきれない。一人の人が同時に多数派でもあり(例えば、知識産業において高学歴を持つ)、少数派でもある(例えば女性)というインターセクショナリティが注目されている通り、自分は見方によって多数派と少数派のどちら側にも成り得る。私はインクルードする立場なのか、される立場なのか、切り替えがややこしい。

最後に、もっとも厄介な点だが、インクルードされない状態は必ずしも悪いとは限らない。明らかに差別を受けて不利益を被る場合は論外だが、「事の外に立ちて、事の内に屈せず」に表される大局観を持つためには、常に片足は多数派の輪からはみ出しておいたほうが都合がよい。外国で言葉がわからず、地元民の楽しそうな会話に入れないからこその「異邦人としての孤独と喜び」に共感する。

一方で、エクイティはどうだろう?D&Iはさらに進化し、ダイバーシティ、エクイティ&インクルージョン(“DE&I”)を掲げる企業も多い。多様性を認めることは、いろいろな視点を持つ人を受け入れるということ。視点のせいで圧倒的に不利にならないよう、気遣いをしてこそ、エクイティ-結果としての公平性-を担保できる。障がい者を持つ兄が草野球を楽しめるようルールを手作りする子供たちの話はまさにエクイティを体現している。

結局、DE&Iの根底にある理想とは、性別や学歴を含むさまざまな分かりやすいラベルを取り除いた、一人一人異なる「個人」を尊敬しあう社会ではないだろうか?障がいがあろうとなかろうと、場面ごとに多数派であろうとなかろうと、個人対個人に配慮があり、一緒に助け合おうとする気概があれば、おのずと多様で包摂的な環境が生まれる。

ラベルがあることで「多様性」が見える化される一方で、ラベルに頼りすぎると一人一人の個性が埋没してしまう。DE&Iとはそんな難しさをはらんだ概念だ。まだ理想社会を目指した道半ばだからこそ、概念も試行錯誤を続ける。ダイバーシティがD&Iになり、DE&Iとなった過程からもうかがえる。「一人一人が、お互いを個としてRespect(尊敬)しあう」ことが当たり前になった社会では、DE&Iという言葉はもはや不要になっているだろう。しかし、そこに至るまで、まだ道のりは遠い。

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