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ボクの居場所はどこ?(上)

このオミクロン株の猛威で、社会の構造変化は決定的になるのではないだろうか。コロナ禍以降、大阪梅田のPCR検査センターの前を通っているが、これまでで最長の行列となり、300人が並んでおられた。その行列を見ながら、「コロナ禍前には戻らない戻れない」ということが決定的になったのではないか、そしてこの構造変化でなにかを生み、なにかを失うことになるのだろうかと感じた。10年先20年先から振り返ったとき、“あのオミクロン株猛感染拡大が転換点だったな”と思い出すことになるのではないだろうか。

1.ボクの居場所が消えた

都心のビルのなかのオフィスのスペースが縮小しようとしている。都心から郊外・地方にオフィスが移転しようとしている。郊外から都心に向かう人が減っている。会社は、満員電車に乗って長時間通勤してくる従業員を集める必要はなくなろうとしている。

週2日テレワーク週3日となり、オミクロン株の感染拡大で原則在宅勤務となった。サテライトオフィスにも行く人は決して多くない。週休3日、4日制導入が検討されている。お客さま訪問は原則オンラインとなり、関係者との打合せも原則オンラインとなり、出張・接待も原則延期もしくは中止となった。オフィスの自席がなくなり、フリーアドレスとなった。それでどうなる。

   ・ 月曜から金曜まで、オフィスに通勤して朝から晩まで
     オフィスで勤務するスタイルが崩れた
   ・ 仕事をする場所が定まらなくなった
   ・ 自分の居場所がオフィスからなくなった

みんな、どうしているのだろうか。当初は、”みんな、なにをしているのだろう、どこにいるのだろう”と考えることもあった。それが、テレワークも3年目となって、みんなで集まらないことが普通になると、そんなことを考えることが少なくなりつつある。

週2日のテレワークが週2日の出勤・出社となり、それを1年間経験し、2年も経験した。毎日会っていた会社の人と滅多に会えなくなって、会社の人との関係が薄くなろうとしている。みんな、あまり言わないけれど、寂しい。だから

テレワークが普通になって、会社の人と直接の関係性がなくなっていくと、自分の空間であるホームで、同じ価値観の人々と、ずっとつながっていたいと思うようになっていく。

自分の1日の中心の場所が変わった。会社時間が中心だった1日の時間から、コロナ禍で会社時間が減った。これまで、会社があって家があった。会社が主で家が従という仕事観だった。そこから、会社が無くなり家だけとなった。家という箱のなかの「家庭(ホーム)」という場がすべてと思う世界観になろうとしている。そうなると、これからは

「ホーム」をどこに置くかが大事になっていく

2.「ホームオフィス」になると、どうなる

会社とは、Companyの和訳。Companyの語源は、ラテン語の「com(ともに)」と「panis(パンを食べる)」に仲間を表す「-y」でつくられた言葉で、一緒にパンを食べる仲間という意味だった。

毎日、会社で顔をあわせ、同じ空間で一緒に仕事をした。昼食を一緒にとったり、仕事を終えて一杯飲みをしたり、職場旅行もした。だから会社の仲間になにかあれば、気になった。会社の仲間の顔色が悪ければ

「大丈夫?家に帰って休んだら」

と声をかけた。ところが、その「声をかける」ということがセクハラになるかもしれないといわれて、声をかけにくくなった。そうなって、本当に具合の悪い人を見つけにくくなった。

そして、コロナ禍となり、テレワークとなって、会社でみんなと一緒にいられなくなった。毎日オフィスで会っていた関係から、パソコン・スマホのオンライン越しで時々会う関係になろうとしている。パソコン・スマホの画面では、みんなの本当の顔色が分からない。ホームオフィスになると

だれが声をかけてくれるのだろうか

会社で仕事をしていたときは、仲間がオフィスに出勤してこなかったら

「〇〇さん、出勤してこないね。どうしたのかな?」
「なにかあったのかな?」

と心配になった。これが、互いに助けあうという「相互扶助(互助)」の関係であった。別の言い方をすると

他人事(ひとごと)ではない

と思う関係だった。しかしその人が会社の内の人ではなく外の人で、よく知らない人だったら、その時間に来ると言っていた人が来なくても、電話がかかってくると言っていた人から電話がかかってこなくても

「どうしたのだろう?」
「大丈夫かなあ?」

と心配しない。その人はウチの人ではなくソトの人で、知らない人だから、気にならない。その人のことを知っているか知らないかで変わる。その人を知っていることで、相手への心配、思いやりが生まれる。これが相互扶助(互助)の基本構造。テレワークでホームオフィスになったら、相互扶助がなくなっていく。ウチとソトの関係性が揺らいでいく。

3.集まらなくなったら、どうなる

毎日のように学校で一緒にいた親友との密な関係が卒業したら薄れていくように、会社がホームオフィスになれば会社の仲間への思いやりが薄れ疎になっていくかもしれない。その人と一緒にいるのかいないのか、物理的に直接見える場にいるのか見えない場にいるのかで、大きく変わっていく。そもそも

人々が集まって、目の前にいると
情が湧き
その人が困っているように見えたら
調子が悪そうに見えたら
どうしたのだろうと心配になった。

動物も、そうである。
カラスが死んだら、他のカラスが死んだカラスのまわりに集まる。
象が死んだら、他の象が死んだ象のまわりに集まる。
動物も仲間が死んだからといって、すぐにいなくなるということはない。
仲間が死んだと思ったら、つっついたり、寄り添ったりする。
生き物が尊いのは、その姿。

ヌーも、ワニに仲間が食べられても、そこから逃げない。それが生き物の習性としたら

人が集まる=集団のなかで
互助の心が生まれる。

かつて、町・村のなかで、一生を暮らした。みんな、その町・村で生まれ、いっしょに遊び、同じ場所で学んだ。町・村全体で、子どもを育てた。大人になったら、色々な寄り合いがあり、酒を飲み、食事を共にして、語りあった。町の人村の人みんな一緒に作業した。みんな、会ったら挨拶して、町の人村の人みんな顔見知りだった。なにかあったら、みんなで協力して解決しようとした。捨て子が見つかったら、町や村の人々で育てた。生き倒れの人がいたら、町や村の人々で治療・介護した。たとえ死んだ旅人が見知らぬ人であっても、丁重に弔った。

しかし都会住まいになって、挨拶もしなくなって、隣に住んでいる人々の顔も名前も知らなくなった。たとえ隣に住んでいる人が死んでいたとしても

気がつかなくなった。
気にかけなくなった。

そんな孤独死が増えている。そんな話をいろいろな所で聴くようになった。これから、単身者が増えて、もっと増えていくと言うようになるなか、コロナ禍となった。人と人が集まることがだめといわれ、機能的に集まることがいけないということになり、社会が分散型になればなるほど、大切なことが無くなっていくのではないか。

互助の心が薄れていく

のではないか。これから私たちはどうなっていくのか、これからに向けどうしたらいいのだろうかを、3回シリーズで考えていきたい。


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