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経験とは履歴書を書くためにするものではない

若者の格差をなくすためには「学歴中心の履歴書から経験中心の履歴書へ」という発言デ一躍話題の人になっている人がいるらしい。


どうやら話題の発端となっている発言は、少し前の2021年の動画らしい。

この動画を見た限りでいえば、厳しい言い方だが、まさに前回私が書いた「馬鹿の山にとどまっている自己皇帝系人間そのもの」だという印象しかない。大人の成田氏や若新氏が番組やご本人を慮っていろいろ気遣って発言しているのに、なかなかの皇帝ぶりで笑うしかない。

若者の格差という話に関して言えば、特に親の環境(所得とか性格)によって子の将来が大きく影響を受けるのは間違いないのは確か。特に教育格差がすべての起点で、親が裕福じゃないと子の教育レベルが下がるのは相関がある。親が貧乏なのは親の教育レベルが低いからでもある。

子の高学歴には親の経済力が必須なのに、親が低学歴だと子もまた低学歴の再生産というジレンマ。学歴もそうだし、負の再生産は、就職も年収も結婚にだって影響はある。

残酷な事だ。

さりとて、よくよく考えれば同じ親から生まれた子でも兄と弟では雲泥の差がつくこともある。親がこうだからダメなんだとは必ずしも決めつけられない。その差は、本人の努力もないとは言えないが、それ以上に、学校、先生、友達等付き合う人間やバイトや部活などの経験の差によって生まれる。良くも悪くも。

しかし、その体験は何も履歴書に書くためにすることではなく、ましてや他人に評価してもらうためにやることではない。自分の内面に地層のように積み重ねていくものである。

前回の記事に書いたように、自分の外側の評価でしか自分を認められないから「経験の履歴書」などという的外れな発想になるのだろう。

経験は他人に誇るものではない。自分の自信につなげるものだ。他人に見せびらかして評価を得るための経験がほしいと思うから、その経験すら嘘で塗り固めようとしてしまう。本末転倒です。

説教臭く聞こえるかもしれないが、関わる人間や場所の数が多いにこしたことはない。後から考えれば無駄な関わりも相当多いのだが、一見無駄なような人間とのつきあいや出かけた場所でどんな意図しない化学反応があるかわからない。関わる点(人と場と経験)の数の多さはとても重要なのである。

常々言っているが、人間を形成するのは環境である。環境とは接点の数である。毎日同じ場所で同じ人としか交流しなければ、それは澱んだ沼の環境と同じだ。新しい水が入ってこなければその水はやがて腐る。

自分の環境を腐った沼地にしないために、水を循環させるという経験が必要なのだ。新しい水をどんどん取り入れることがすなわちいろいろな経験なのである。

自分の努力だけでは新しい水と接することはできないかもしれない。しかし、予期せぬ雨が降る場合もある。偶然の出来事もまた経験のひとつ。

親ガチャは確かにあるだろう。人生がうまくいかないのはこんな澱んだ沼に産んだ親のせいだと言いたいこともあるだろう。しかし、そういう人に限って、実は親だけに依存している。親という環境しか経験していないだけだったりする。親も長い間一緒の時間を共にしてきた環境のひとつではあるが、親だけが環境ではないことに気付くことが大切。すぐそばに接続できる地下水が流れているのに、見ようとしていないだけかもしれないよ。

よく「環境を変える」というが変えなくてもいい。「環境を増やせばいい」のだ。自分を変えようとしなくてもいい。自分というものの役割や立ち位置を増やせばいいのだ。増やせば勝手にいつか変わっている。

そして、自分を増やすための環境たる人や場所やそこでの経験は、いくらでも周りに転がっている。ないのではない。見ようとしていないだけだ。

繰り返すが、誰かの評価を得たいがための、履歴書に羅列するためだけの経験などしなくていい。経験は個々人の日常の中にあり、それが他人にとって価値があるかどうかなんてどうでもよい。経験したらどんな恩恵があるかどうかはわからなくていい。確実な未来が約束されていないことは経験しないなんてなんてもったいない話だ。可能性とは不確実な未来のことである。そもそも「確実な未来を予見」したつもりになって身を滅ぼした皇帝は山ほどいる。

自分ではない誰かと何かしら関わり、行動すれば、それがひとつの経験となる。経験をひとつ増やせば、環境がひとつ増える。環境がひとつ増えれば適応するための自分も増える。自分がたくさん増えていけば、関わる人もどんどん増えていく。それは、とりもなおさず、あなたがその他者にとってもかげがえのない接点のひとつとなっていることに他ならない。

人生は履歴書を書くためにあるのではない。自分を増やす旅をすることなのだ。と思うよ。


他人に評価されるために、とか、社会に求められている姿を演じれば賞賛してくれるから、とか、そんなまやかしの経験なんて百万回したところで意味はない。最終的には自分自身を苦しめることになるよ。りゅうちぇるのように。

「“夫”らしく生きていかないといけないと自分に対して強く思ってしまっていました。“本当の自分”と、“本当の自分を隠すryuchell”との間に、少しずつ溝ができてしまいました」

世の中にいいねされる夫の履歴書を書くために毎日が苦しくなってしまうのなら本当に本末転倒である。

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荒川和久/独身研究家・コラムニスト
長年の会社勤めを辞めて、文筆家として独立しました。これからは、皆さまの支援が直接生活費になります。なにとぞサポートいただけると大変助かります。よろしくお願いします。