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公私の境が、溶けるとき

外出規制、在宅勤務、ソーシャル・ディスタンスなど、私たちがいま極端な形で経験している新しい生活様式は、新型コロナウイルスの感染が収まった後も、深い爪痕を残すだろう。

特に、これまで当然に捉えられ、注意を払わなかったハレとケ、公と私、リアルとデジタルの「境界」が非常にあいまいになることそのものが、これからの世界を定義づけると考える。

境界の蒸発は、短期的な「在宅ウェブ会議の疲れ」を超えて、私たちの精神と行動に大きな変化をもたらすのではないか?

オールドノーマルな世界では、私たちは自宅のドアを閉めたとたん、外のリアルな世界にいることを認識し、「ちゃんとした格好」をして、「ハレ」の場で見せる自分を演じていた。

ところが、今やキッチンテーブルに置いたPCから、毎日のように同僚や取引先の声が響く。ウェブカメラに映る上半身はスーツとしても、下はパジャマに裸足のままでも、仕事が出来てしまう。上半身は「公」、下半身は「私」というキメラ状態だ。しかも、デジタルなミーティングを閉じたとたん、「公」の世界は目の前から一瞬で消える。

このように、今まで確かだった「境」が突然メルトダウンする現実に、私たちはどう対応するのだろうか?

まず、前向きな予想がいくつかできる。まず、「ハレ」が「ケ」の中に入り込むことにより、より日常(「ケ」)をアップグレードしようという気持ちになりそうだ。

既にガーデニングに励む人が増えている。経済的余裕があれば、さらに日常を快適にするため、リフォームも流行りそうだ。距離の概念が縮むので、リアルな「ハレ」を代表する都会よりも、地方に住む選択をするひとも増えるだろう。地方再生には朗報だ。

リフォームした家で、コミュニティスペースを作ることも視野に入る。これまでも、自宅の一部を近所の麻雀愛好家が集まる部屋に改造したり、音楽サロンを作ったりするシニアは、ちらほらいた。公私の境がより流動的になることで、「自宅に他人が出入りする」ことに抵抗感がより薄れると予想する。

さらに、ひとの意識から境界線がなくなることは、外出が難しい障害者やシニア、病気を抱えたひとたち、または「引きこもり」生活者にとって、活躍の場が増えるチャンスでもある。リアルな「ハレ」の場に顔を出せないことの不利が相対的に小さくなるので、同じ土俵で戦うことができるからだ。

一方、負の作用もありそうだ。SNSに火が付いたころの話。アップする写真を修整して目を大きく見せたり「可愛く」したりするあまり、リアルな生身の自分とのギャップが開き、外出恐怖症になったり、果てにはバーチャルな自分に合わせるためにプチ整形をしたりする女性の話を聴いて、驚いた。

しかし、多くの人にとってデジタルがリアルに勝るようになると、このような話は形を変えて一般化するかもしれない。デジタルで作った自分の像が独り歩きする「ドリアングレイの肖像」現代版だ。この結果、新しい引きこもりが生まれる危険さえある。

さらに深刻と思われるのは、「私だけの時間、空間」が大きく侵食されることだ。人間はソーシャルな生き物だが、一方でプライバシーを大切にする。今までは、自宅とは、素の自分に帰れる港、セーフハーバーを象徴した。

ところが、デジタルがリアルを覆い、ハレがケの下位概念となり、公と私が混然一体となった世界で、私たちは「自分だけの隅っこ」をどうやって確保するのだろうか?安全の代償にプライバシーの放棄を要求する「ビッグブラザー」による監視ほど、注意を惹く問題ではないかもしれない。しかし、便利さと引き換えに、結局大きな精神的代償を払うことにはならないか?

新型ウイルスに背中を蹴られ、世界はいやおうなしに大きく転換しようとしている。まるで津波に飲み込まれるような気持ちになりがちだが、立ち止まって転換のポジティブとネガティブの両方を捉えよう。正の作用を積極的に取り込むと同時に、負の作用に対しては、自衛することが大切だ。

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