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「国際女性デー」は「女性のため」ならず 〜「自分」らしく生きられる社会について考える日にしよう

お疲れさまです。uni'que若宮です。

明日3/8は国際女性デーです。

wikipediaによると、

1908年アメリカ合衆国のニューヨークで、参政権のない女性労働者が労働条件の改善を要求してデモを起こした。これを受けドイツの社会主義者クララ・ツェトキンが、1910年にデンマークのコペンハーゲンで行なわれた国際社会主義者会議で「女性の政治的自由と平等のためにたたかう」記念の日とするよう提唱した[6]ことから始まった[注 2]。

とのことで、「女性の政治的自由と平等のためにたたかう」日だそうです。

とはいっても、女性のためだけの、女性だけに関係がある日ではありません。

最近ジェンダーのことについて考えたりお話しする中で、「女性活躍」は実は女性のためではない、という思いを強くしているのですが、「国際女性デー」もまた「女性のため」だけの日ではない、そんなことを今日は書きたいと思います。


『さよなら、男社会』

偶然にもちょうど今日、ジェンダーについて話す機会がありました。

COMEMOキーオピニオンリーダーつながりでもある、友人の演劇家・藤原佳奈さんが尹 雄大さんの『さよなら、男社会』という本を読んで、僕におすすめをしてくれたのがきっかけで、じゃあちょっと話しますか、となったのですが、clubhouseでは著者の尹さんも聞いてくださっていて、最後はご自身からもお話を伺うこともでき、僕自身改めて(特に男性の)ジェンダーバイアスについて考える、とても良い機会になりました。
((僕も昨日知ったのでまだ読めていないのですが)『さよなら、男社会』は藤原さん曰く「はじめて自分の気持ちを聞いてもらえたような気持ちになった本」とのことなので、男女問わずぜひ手にとっていただけたらと思います)

トークでは特に男性側の無意識バイアスと、それをどうやって変えていったらいいのか、というような話が出ました。


僕自身、男性側からジェンダーギャップについて発信したのをきっかけにジェンダー関連のイベントに呼んで頂くことが増え、そうした場で女性の意見を聞く機会も増えました。そうした中で、いかに(これまで男性主体でつくられてきた)社会・制度の中で女性が無理や我慢を強いられてきたか、というのを改めて知ることもあり、またその都度、そうした非対称について自分がいかに気づいてすらいなかったか、ということに愕然とします。

(たとえば川上未映子さんのこの短編小説には女性が女性であるというだけでどれだけ身体的・文化的な消費や搾取の構造の中で苦しむか、という社会的な呪いが生々しく描かれています。男性は読んでみるだけでも少し行動が変わるのではないでしょうか)


ジェンダーギャップの解消はもちろん、「知る」というところから第一歩が始まるのですが、男性の「無知」を直していくには「無知の知」的な難しさがある気もしています。というのも、男性に限らず、自らが依って立ちかつそれに巻き込まれている社会的価値観そのものを疑うというのはなかなか難しいことだからです。「気づかないことに気づく」というのは「思考の死角」でもあるので「気づこう」と努力したらできるものでもないところがあります。

(勿論圧倒的に現時点では男性側の努力は足りないけれども…)男性の無意識のバイアスや無知に対し、「怠慢」や「過失」として責めるだけではなかなか変わっていかないのではないか、という気もしています。そしてそうした無意識のバイアスは社会の構造的な問題だったりするのです。


男もつらいよ

「構造的な問題」についていうと、女性に対してのジェンダーバイアスというのは、翻って男性に対してのバイアスでもあります。

「男性は強いもの」とか「男性が稼ぐもの」とかいうのは明らかにジェンダーバイアスで、男性の側にもそれに縛られている辛さがあります。といっても、「男性も大変なんだから痛み分けでしょ」とか言いたいわけではまったくありません。

そうではなく、社会の構造的欠陥は女性だけではなく男性にもつらさを引き起こしているので、そうした構造的欠陥を見直すことは女性だけでなく、男性のつらさも解消することになる、ということを言いたいのです。あるいは別の言い方をすれば、ジェンダー問題というのは女性と男性の闘いのではなくて「社会構造」という共通の敵との闘い、なのだということもできます。


しかし現状、女性が女性の権利について発言をすると、「フェミ」と男性からクソリプが飛んできたり、どうしても対立構造になりがちです。なぜでしょうか?

その原因にも、ひとつには現在の社会構造や社会通念があり、そこから「女性の活躍は男性は価値を脅かす」という幻想が発生してしまっている、ということがある気がします。


たとえば、「男性」に対し、社会的には「強さ」や「稼いで養う」とか「出世」などといった価値が求められがちなところがまだまだあります。これも実は、単なる因習的な概念にすぎず、また個とは関係のない「呪縛」でしかないのですが、男性側がこうした価値観を手放せず、たとえば仕事でも「出世して年収を上げる」というレースだけをひた走っている場合、女性が今まで以上に活躍をしてくるということはそこにライバルのプレイヤーが増えることであり、自分のポジションが脅かされることにもなるわけです。レースで上位を取ろうと必死なときには他のプレーヤーの活躍は「脅威」に思え、阻止したくなります

ジェンダーの話をしたとき、男性側からの反論で一番多いのは「能力主義」という言葉です。そういう言葉で「女性の能力」に対して牽制すること自体が男性が「レースの呪縛」に囚われていることの証左であるように思います。本来、それぞれの能力がよりよく発揮される方が組織や社会全体にとってはプラスのはずですが、レースが目的となると「脅威」として無意識に女性を低く評価しがちになるのです。

男性は女性部下が自分にとっての「脅威」になると低く評価しがち
Inesi とCableが2015年にPersonnel Psychologyというジャーナルに発表した論文によると、「男性上司は女性部下が自分の等級と近いレベルであればあるほど、低めに評価する傾向がある」とのこと 。


先日の森さんもそうですが、特に前世代の方たちは「女性を蔑視しているわけではない」「差別ではなく区別」というようなことをよくいいます。

問題の根が深いのは、こうした発言がポーズではなく本心でそう思っていることで、それがまさに無意識バイアスなのです。

「男性が外に出て働く」「女性は家を守る」という役割を決めつけてしまっていると「女性活躍」とは「男性のなわばり」に女性がわざわざ出張ってくることのように思えます。そしてレースでの自分の優位性を守ろうとすると、自分の縄張りの中では女性を劣化して評価することになるのです(マンスプレイニング)。一方で「家庭」は自分の縄張りではない、と決めつけていますから、そこでは女性に敬意を払っていて「蔑視」はしてない、という。


「他分」を手放す

ただ、こうしたバイアスの責任を男性にのみ帰せられるか、男性だけが考えを改めればいいのか、というと実はそんなに簡単な話でもありません。

たとえば「年収」。

リベラルな考えをしている人でも、男性の価値を測る尺度として「年収」を当たり前に求める価値観は、実はまだまだ根強くある気がします。

たとえば共働きの家庭で男性の方が年収が低いのは周りの人に言いたくないとか、年収が高い彼氏を自慢するとかいうことは女性でも無意識に取ってしまいがちな行動です。いまだに男性は社会通念上「稼ぐ」ということを求められていて、そのプレッシャーの中で「稼げ、だが席を譲れ」と言われるのはある種ダブル・バインドな状態でもあるわけです。

たとえば「国際女性デー」の代わりに「国際主夫デー」というのを考えてみましょう。「主夫」はいまちょっと肩身の狭い状況にありますが、それをもっと当たり前にするための日です。大手をふって男性が「主夫」できるためには、女性の考え方を変える必要もあるでしょうし、女性がもっと稼いで夫を養え!と言われるかもしれません。そんな風に言われたら「できるなら稼ぎたいよ!でも社会がそうなってないじゃん!」と反論したくなるでしょうが、男性がレースを下りられないことや家事に参加できないのもそのような社会構造の問題もある。


実際には必ずしも男性がみんな「稼ぐ」に向かわなければいけないわけでも、みんなが向かいたいわけでもないはずで、「稼がなくてもいいよ」と言ってもらえたら肩の荷が一気に降りる、という男性だって結構いるとおもうのですが、「家庭はオレが担わないと…」という呪縛の中で、自分のあり方も女性のあり方も縛ってしまっているのです。

こうした「男らしく」「女らしく」というような価値の呪縛はその人の「自分」らしい価値からは程遠いので、僕のアート思考では「他分」(他人の分節)と呼んでいるのですが、そんな「他分」の呪縛を手放せるようになると、男性も女性ももっと「自分」らしく生きられるようになるはずです。

(そして「他分」の呪縛に縛られている時、人はひとに対して不寛容になります。僕も以前そういう呪縛に囚われていた時があるのですが、「こっちも我慢してやってるんだからお前も我慢しろよ」というようなルサンチマンの再生産をうんでしまうのです)


社会や組織にダイバーシティが必要な理由

そのように人が「社会に決めつけられた役割」(=他分)に縛られず、「自分」らしく生きられるようになるためには、社会全体が「決めつけ」で縛り合う閉塞的なものではなく、もっとしなやかになることが必要です。


そしてそうなるためにこそ、社会や組織にとって「多様性」が重要なのです。


国際女性デーが生まれた発端もそうですが、かつて女性には参政権がありませんでした。しかしいま、女性の社会進出について反対・傍観する人や、女性に参政権がないほうがよかった、と主張する人はもはやいないでしょう。

女性が参画するようになったことで政治は明らかにきめ細かいものになりました。男性だけでは気づかれていなかった社会の課題に気づいたり、それに対する政策を考えられるようになったからです。

誤解のないように申し添えると、ここでいいたいのは”効果的だったから”女性も政治参画してよかった、という意図ではありません。そもそもにおいて「男性だけの政治」には狭窄的欠陥があったわけで、政治(それは国民を代表し、国民の全体のためになされるものなのですから)の場から女性が排除されていたこと自体が不自然なことだったのです。

たとえば身長が170cmだけの人を20人集めると低い位置のことには気づきづらいように、同じような人だけを集めると見えない死角が増えてしまいます。そして同質性のために視野狭窄のまま誤った判断でつきすすんでしまう、↓こちらの記事でいわれている「集団浅慮」のリスクがあります。

d女性、そしてさまざまなマイノリティーとその視点が組織に増えることは、その組織や社会自体を柔軟性のあるものにアップデートしてくれるはずです。


以上述べたように、「女性活躍」は「女性のための問題」ではなく、

1)男性の生き方についても改めて見直し、男性の可能性を解放することになる

また、

2)男性だけの同質性の高い組織よりも女性やマイノリティーが増えると視点が増えて、組織や社会の柔軟性があがる


いずれにしてもそれは女性 vs 男性ということではなく、社会構造をアップデートするための機会だと思うのです。


「国際女性デー」をきっかけに、男性も含めてみんなで社会の構造を見直し、もっとみんなが「自分」らしい価値を生かせる社会のかたちについて考える機会にしてみませんか?

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