失敗の受け皿からチャレンジの芽は伸びる
お疲れさまです。uni'que若宮です。
日経新聞の私見卓見に、CAMPFIRE・家入一真さんのこんな意見が掲載されていました。
とても共感したので、今日はそのことを書きたいと思います。
生存者バイアス
家入さんはこんな風に書いています。
「起業家は強くあるべきだ」というのはもっともだが、いつしか「強くて当然」という議論にすり替わってしまった。
こうしたことは、実は起業に限らず、色々なところで繰り返されてきたことかもしれません。そしてそれは多くの場合、「生存者バイアス」によるものです。
「生存者バイアス」というのは、なにか条件のふるいにかけられたサンプルに対し、残ったものだけを調査(途中で離脱したサンプルはなかったことになる)したために起こる、結果の偏りのことです。
例を出すと、たとえばある難関大学の試験の合格者を調べたところ、合格者に年収が高い世帯の子が多かったとします。ではここから「世帯年収が高い家の子の方が賢い」ということはできるでしょうか?
一瞬そう信じてしまいそうになりますが、これは実は誤った推論です。なぜなら不合格者の中にも同じくらい年収の高い世帯が多かったりするからです。
もし、この大学の試験を受けるのに受験料として500万くらいかかるとしたらどうでしょうか?かなり所得に余裕がなければ受験すること自体ができませんから、受験の時点で(学力にかかわらず)かなり高年収世帯の比率があがってしまうわけです。合格者/受験者=合格率をちゃんとセグメントごとに出すと、実はあまり変わらなかったり、逆に受験数の少ない低所得家庭のほうが合格率は高かったり、というようなことがありえます。
このように、「生き残った人たち」だけを見て物事を判断することはまったく反対の判断をさせてしまうことすらあり、危険でもあります。よく出される例で、第二次大戦中に連合軍が帰還した戦闘機の弾痕をしらべ、弾痕の少なかったエンジンとコックピット「以外」の装甲を厚くしようとした、という話があります。これは実はまったく誤った対処で、「エンジンとコックピットを撃たれたらすぐ墜落して帰還できなかった」だけであ、むしろ真っ先に防御を厚くしないといけなかったのですが、それが見えなくなってしまっていたわけです。
スポーツや教育における「根性論」もそうだし、人種やジェンダーにおける不公平論もこれに似たところがあります。
たとえばひと昔前、スポーツで大成する人は多少無理をしても過酷なトレーニングをした人ばかりなので、過酷なトレーニングをつづけることが成功への道だと考えられていました。しかし実はその裏で、過酷なトレーニングが沢山の不幸な故障者や事故を生んでしまっていて、今では非科学的な迷信は改められています。
ジェンダーについても、現状では成功者に男性が多いことから「能力を公平に計れば、男性の方が優秀」という間違った認識を生んでいたりします。
サクセスストーリーがバイアスを再生産する皮肉
さらに難しいことには、こうした不利な中で反例となるべきマイノリティーが困難をくぐり抜けたとき、それが不公平なバイアスの構造を是正するどころか、肯定し、再生産してしまうところがあるのです。
どういうことかというと、たとえば現在でも、人種によって経済環境に違いがある国はまだまだあります。その中でもその困難をくぐり抜けてマイノリティの人が成功したとします。そうすると、その話がサクセスストーリーとして喧伝され、美談として取り上げられれば取り上げられるほど、「人種がちがうマイノリティーでも頑張れば成功できるじゃないか!」となり、「マイノリティーで成功していない人は頑張りが足りない!」という話になったり、「頑張れば成功できるのは公平なんだから、それで差があるということは能力の差だ!」なんて話にすり替えられがちなのです。
要するに、
マイノリティーは不利な環境にある
→不利なマイノリティーでも頑張れば成功できる
→頑張れば成功できるってことは成功していないマイノリティーは頑張ってない、もしくは能力がない
と問題がすり替えられ、責任が本人のせいにされ、環境の是正がされないままになってしまうのです。マイノリティーが頑張れば頑張るほど、現状の環境が肯定されてしまう、というのはなんとも皮肉な話です。
起業家が「強くて当然」といわれることにはこのように、二重の問題があります。ひとつは脱落した人たちを考慮せずそこに対するサポートを忘れてしまうこと、そしてそれにも関わらずどうにか成功者が出ると、現状でもやれている人はいるからやれないのは本人の問題、というすり替えにより現状が肯定されてしまうことです。
「失敗は自己責任」?
日本ではとくに、失敗した場合の自己責任論が強すぎるきらいがあります。コロナにかかったのは本人の不注意、と言われて批判されたり、強姦されたのはそんなところに行ったせい、というセカンドレイプが今でも行われています。
どちらのケースでも純然たる被害者であり一番つらい人が「お騒がせしてすみません」と謝罪する国はそれほど多くないでしょう。
家入さんのいう
挑戦ばかりを促し、日本では挑戦が少ないと嘆くのは筋違いだ。
というのは、挑戦挑戦といいながら、失敗すれば「他人事」として切り離して批判する、こうした因習のことを指していると思います。
以前、こんな記事を書きました。
失敗に対して「自己責任」という言葉を発するとき、それが実は「自分には責任がない」という主張による「切り離し」であることが多いように思います。しかし、ほんとうは社会はつながっており、どこか見えないところで起きている問題に対しても「自分にも責任がある」という意味で責任は「つながり」としてあるはずです。
起業家はもちろん、自分の意思で起業し、チャレンジします。それで失敗したのだから「自己責任」と切り離してしまうこともできるでしょう。しかしそうしたチャレンジがあるからこそ社会は硬直せず、変化していくことができます。(それが成功するにせよ失敗するにせよ)起業家がしたチャレンジの恩恵は、実は社会のみんなが分有的に享受しているとおもうのです。
これは企業内新規事業にもいえることです。僕自身企業内で新規事業に取り組んだり、その環境やプログラムをつくることにも携わってきました。実は企業ではいまだに「やる気があるやつは事業を起こす。それができないのはやる気が足りないからだ」という言葉をよく聞きます。また逆に、未来のためのチャレンジとして新規事業を焚き付けながら、実際に新規事業にチャレンジする人に「金食い虫」とか「失敗したら自己責任」というような冷ややかな目が向けられたりすることもままあります。
たしかに、やる気は必要です。しかし、それはそれとしてチャレンジしやすい環境を整えることはやはりとても重要なのです。なにより、失敗に対して冷ややかな組織ではチャレンジ自体が減っていくでしょう。
家入さんは言います。
若く小さな企業は実験と検証を高速で繰り返し、社会に変革を起こす。少子高齢化で政府の財源が減っていく中で、民間の新陳代謝を高めることは欠かせない。失敗した起業家をケアすることで企業の新陳代謝が進み、日本経済の成長力も上がるだろう。
よく「エコシステム」という言葉も使われますが、それは「弱肉強食」といわれるような強者が主人公の連鎖ではありません。生態系にはたくさんの死が含まれ、そこにある「ものいわぬ養分」を摂取することによってやっと肉食動物は生きていられるのです。
起業家の話だけでなく、「失敗」を「自己責任」として切り離さず、社会全体として受け止めること、そのためのチャレンジコストをみんなで負担し受け皿をつくる、そうした受け皿があってはじめて、チャレンジの芽はにょきにょきと生えることができ、(はじめは豆苗やもやしのように小さな芽が)いずれ大きな豆の木になるかもしれません。
※注:実際には豆苗やもやしを育てても大きな豆の木にはなりませんので試さないでください。種類がちがいます※