西も東も、大迷惑かどうかは、事情次第
皆さんこんにちは。今回も日経COMEMOのお題に乗っかって、考えてみたいと思います。
私の世代には懐かしいユニコーンの名曲「大迷惑」。
その中では新婚で念願の「マイホーム」を手に入れた矢先に単身赴任を言い渡される、若手社員の悲哀が描かれています。
28歳の時、私はマンション購入の契約にサインしました。本当は一戸建てが良かったのですが、色々考えて自分を納得させ、港北ニュータウンに引っ越すことにしたのです。
手付金を払い、さあこれから、という時に転勤の辞令をいただきました。
心のモードをやっとマンションに合わせた矢先のことだったので、面食らいました。また、未熟だった私は、自宅購入直後であると知りながらの意思決定に、理不尽と無情を感じました。
通常、マンションの手付金は一度払うと返ってこないと聞いていましたが、私がサインしたデベロッパーは、親切に対応してくれました。曰く「我々も勤め人、ご事情はわかります」優しい言葉が、骨身に滲みました。
結果、私は半年後に別の会社に移りました。初めての転職でした。
今になってみれば、社命に対してろくな結果も残さず会社を去ったのは汗顔の至り。当時の上司を筆頭に申し訳ないことをした、という気持ちがあります。
一方で、この出来事が、それから今に至る私の人生の背中を押してくれた、ともいえ、起きたこと全て佳きこと、という気持ちもあります。
・・・・と、このように「転勤」は、企業にしてみれば一配置転換に過ぎませんが、個人にしてみれば家族を巻き込む一大事。少なからぬインパクトがあります。
さて、転勤がなくなるのか、という本日のお題ですが、そもそも転勤とはなぜ発生するのでしょうか?
それは
(1)企業が支店や支社を持っているから
(2)そこで欠員が出るから
(3)社内で欠員を補充しようとするから
(4)社命には従う、という前提があるから
という4つの要因によると思われます。
今回の題意は、新型コロナによりテレワークが一般的になり、移動の必然性が減じたこの時世に、転勤という前時代的な慣習が淘汰されるのか、という色合いが強いのではないかと思います。そこと関連するのは、(1)のポイントです。
しかしながら(1)のポイントから、コロナに関連して立てられるべき問いは「転勤がなくなるのか」ではなく「支店・支社はなくなるのか」なのではないかと感じます。支店がなければ転勤はそもそも発生しないので。
支店・支社が必要なのは、本社がない地域の顧客対応にあることが大半なのではないかと思います。現地でしかできない顧客対応は対面のコミュニケーションくらいであることを考えれば、「テレワークは略儀ではない」という含意形成が出来つつある現在、支点・支社を無くしてしまう、というのは浮上しそうなアイデアなのではないかと思います。
ところで、対面とテレワークによるコミュニケーションの差は、その略儀さー丁寧さのレベルのみでしょうか?
対面であれば、ボディランゲージの活用により、微細なニュアンスや意思まで伝えること、そして受け取ることができます。また先方チームの中での席次やそれぞれの人の関係性などは、出席者が一堂に介していないとなかなか汲み取ることが出来ません。
従って特に商談初ー中期、ステークホルダーが増え、それぞれの意向がまだ理解できておらず、誰にどのようなコミュニケーションを取れば進むかわからない状況では、テレワークだけでは商談の戦略は建てにくいのではないか、と思います。
加えて業種にもよりますが、顧客対応には納入した商品・サービスについての緊急トラブル対応、のようなことも含まれ、迅速に客先に出向くことの必要性が飛躍的に減少することはそうそうないと思われます。
小売・飲食など、そもそもそれぞれのマーケットに店舗があることが与件である業種もあります。
こう考えると、支店・支社という仕組みは、必要性は減少しそうなものの、なくなる、という状態には程遠いのではないか、という感じがします。
支店・支社の存在をある程度所与とすると、(2)の欠員は必ず発生するので、次に(3)その欠員を社内で補充するのか、ということが論点になります。
具体的には、新しく現地で誰か採用するのか、社内で誰か任命(し、おそらく転勤)させるのか、ということですね。
企業はいつも右肩上がりに成長している訳ではないので、プロジェクトやタスクの中止に伴い、チームやポジションがクローズされることがあります。この時クローズされた業務を担当していた人は、そのまま行けば仕事がなくなる訳です。
ポジションクローズでなくても、誰かを何かのポジションに異動・昇進などさせたら、それまで担当していた人は、次の仕事を決めてあげなければ宙に浮いてしまいます。
終身雇用のコンセプトが希薄なアメリカなどでは、これらはレイオフの危機。なので、個人が社内的にリクルーティング活動をしてポジションを確保したりします。
一方、日本は法制上社員を簡単に馘首できないので、会社が余剰人員(スキルが低い人、という意味ではありません。単に担当しているプロジェクトが閉鎖になってしまった人、ということです)となった人のポジションを見つける、ということをします。
これをやりながら、新規に外部採用を続けると、ヘッドカウントは増える一方になってしまいます。なので、会社では人の新規採用にとても及び腰になります。
かくして欠員・余剰人員の発生に伴うダイナミックな玉突き連鎖の結果として、転勤が頻発する訳です。
つまり、転勤が発生するメカニズムには、終身雇用が関係していて、ここが変わらなければ、構造的に転勤がなくなることはない、ということです。
最後の(4)社名には従う、について。最近は従業員満足を希求する企業も増えているので、転勤の発令にあたっては、本人の意向を汲む、というようなケースが増えているのではないか、と感じます。転勤自体が無くなる訳ではないけれども、本人が嫌々する「不幸せな転勤」はだんだん減らせるし、これからもその傾向は続くのではないか、と思います。
長くなりました。
まとめると、転勤は、支社の存在、終身雇用制などの構造と関わっているので、簡単には無くならない、しかし、本人の意にそぐわない社命は、だんだんとなくなっていく、というのが私の考えです。
最後に少しだけ。
人間は現状維持バイアスがあり、潜在的に変化を忌避する傾向があります。
転勤は大きな変化なので、直感的にネガティブに捉えられがち。しかし大きな視野で見ると、多様な環境で仕事をした経験は、その人の知見や引き出しの蓄積となりますので、結果としてはポジティブに作用することも多いのではないか、と感じます。
ユニコーンの名曲のような悲喜劇は流石にいただけませんが、転勤の辞令を受けたときは、バイアスの眼鏡を外し、ニュートラルにその意味を考える、ということが出来ると、個人の幸せの増幅にも良いのかもしれません。