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クリエイティブな「異種交創」は、「詩的メタファー」に似ている、かもしれない。

お疲れさまです。若宮です。

今日は、すぐれてクリエイティブな掛け算のアイディアって「詩的メタファー」に似ているんじゃないか、という話を書きたいと思います。


「異種交創」のアワードで改めて感じたこと

先日、明星和楽さんという団体が主催する『勝手にクリエイティブ大賞』というアワードがありまして、おくりバント高山さん、しまだあやさん、セブンセンス吉田拓巳さん、(ヨッピーさん)という濃ゆい審査員の面々に混ぜていただいて審査をしました。

『勝手にクリエイティブ大賞』とは…

「異種交創」によって生まれた新しいモノ・コトを発掘し、審査を通じて賞を与えることによって、そのモノ・コトの拡散を図ります。今回は各分野の著名な方や東京からもゲスト審査員をお呼びしての開催となり、新たなクリエイティブが生まれるきっかけとなることを目指すアワードです。

数十のエントリーの中から最終選考にノミネートされた作品は、以下6作品。

・サウナバス「サバス」
・MUSHUP踏切ハウス
・筆談カフェ「桐林館喫茶室」
・植物性レザー「マッシュルームレザー」
・カラスによるポイ捨て清掃「Corvid Cleaning」
・銭湯「ぎょうざ湯」

ビジネスの世界でも「イノベーション」ということが言われますが、イノベーションとは「新結合」のことです。これを狙って色々なところで「異分野」の掛け合わせが試みられていますが、ただ異なるものをかけ合わせれば新しい価値が生まれるか、というとそうでもありません。

ノミネート作品を含めクリエイティブな「異種交創」がたくさん集まる中、その中でも「よい掛け合わせだわー」と感じたものには共通するポイントがあるなあ、と改めて感じたので言語化してみると、

クリエイティブな掛け算は詩的なメタファーに似ている

という感じでしょうか。以下にその3つのポイントを述べてみます。


①一見異なるものの中に共通するものを見い出す、ほどよい距離

メタファー(隠喩)には「異なるものの中に共通するものを見出す」力があります。

たとえば「人間は考える葦である」とか「人間は人間にとってオオカミである」という言葉を考えてみます。この文は字義通り(リテラル)には正しい表現ではありません。人間は葦ではないですし、オオカミでもないからです。しかし字義通りには真ではないからこそ、そこに「隠喩」的(メタフォリカル)な含蓄が生まれます。

隠喩に対し、「直喩」という表現法もあります。直喩表現とは「人間はあたかも考える葦のようである」「人間は人間にとってオオカミのような存在である」という風に、あくまでたとえということを明らかにした表現ですね。このように表現すれば字義通りにも正しいのですが、表現としてはその分、言葉の強さが減ってしまいます。

「あたかも」とか「のような」というクッションをおかないからこそ、メタファー(隠喩)の方が言葉に力がある。そして、クッションなしに接続するからこそ、2つのことばの間の距離が重要なのです。

「距離」というのは↓のようにベン図で表した時、重なる部分が近すぎても遠すぎてもだめだということです。

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左のように、どちらの言葉がもう一方に含まれたり、2つの言葉が近すぎたりすると「メタファーの力」は弱まります。「人間は考える動物である」とか「人間は人間にとって敵である」という表現では凡庸にすぎますしメタファーとして機能しません。また、逆に右の図のように離れすぎてしまってそこに共通項がなければ、含蓄が生まれません。(「人間は人間にとって石灰石である」???)

同じように、よい「異種交創」にはちょうどよい重なりと距離がある気がします。

大賞をとった『MASH UP 踏切ハウス』でいうと(↓動画が最高なのでぜひみてみてください)

「踏切」と「ダンスミュージック」という一見全く関係のないものの中に「4つ打ち」「BPM」という共通するもので結ばれています。

『桐林館喫茶室』では「筆談×カフェ」という掛け合わせによって「コミュニケーション」の楽しさが浮かび上がってきます。

「ぎょうざ」×「サウナ」の『ぎょうざ湯』も掛け合わせの距離感がポイントで、餃子の「主食ではないんだけど脇役でもない、時々むしょうに食べたくなる気軽さと中毒性」がサウナと共通しているからこそ企画として強い。

単に食べ物とサウナをくっつければいいのではなく、この組み合わせだからこそ結ばれるイメージがある。「ごはん湯」や「フォアグラ湯」では『ぎょうざ湯』ほどの魅力が生まれない気がします。


②遡及的に元の概念イメージが変容する

そしてまたよいメタファーというのは、メタファーによって元の概念イメージが変容するというのも特長です。

隠喩的な組み合わせによって、それぞれの概念の内実が拡張されるのです。

「お年寄りの原宿」や「浪速のモーツァルト」と名付けられることで、巣鴨やキダ・タローさんにはイメージが付加され、捉え方が変わります。このように良いメタファーは片側の概念イメージがメタファーの回路を逆流し、もう片方の概念の内実やイメージをより豊かにすることができるのです。(逆にあまり良くないメタファーではこうした変容が起こりません)

僕も新規事業をいきものや人の一生にたとえることがよくありますが、すると新規事業の捉え方が動的なものに変わってくるんですよね。0→1フェーズを赤ちゃん、1→10フェーズを小児、10→100フェーズを成長期というようにメタファーによって捉えられると、その変化のタイミングやそれぞれの時期で何が大事かということが(たとえば子育てと対照されることで)、より豊かで具体的に捉えられるようになったりします。


『MASH UP踏切ハウス』でも、「踏切」のイメージが「ダンス・ミュージック」というメタファーによって変容します。審査会でしまだあやさんが

「私は踏切の音が苦手というかちょっと怖かったんだけれど、『MASH UP踏切ハウス』を知ってから踏切の音をきくとちょっとリズム取っちゃったりして、なんか楽しいものに変わって、それがすごい」

というような評をされていたり、主催者のayumuさんが

「普通踏切って「早く終わってほしい」っていう邪魔ものな感じがあるとおもうんですが、踏切が鳴っている間だけ音楽とマッシュ・アップしていると、短すぎて物足りないというか、むしろ「もっと長く聴きたい」と感じるようになる」

とおっしゃっていたりしたのってまさにそういう「変容」だなと。「踏切」っていうなんとなく悪者になっているものの中を「ダンス・ミュージック性」が逆流して価値を転換されちゃう。

「筆談カフェ」では、聴覚障害のための補助手段なイメージがある「筆談」が「カフェ」というカジュアルでリラックスしたコミュニケーション空間に置かれることで、音声での会話やテキストチャットとはちがう、「筆談」というコミュニケーションの豊かさや可能性が見えてくる。


③日常を異化する、ポエトリーな体験

そして、すぐれた「異種交創」ではこのような逆流や遡及的な価値転換によってありふれた日常が「異化」され、ポエティックな体験が立ち上がります。

「異化」とは、透明化している日常に意識を向け、前景化し価値化するという効果を表す美学用語ですが、要は日頃見過ごしている「当たり前」の日常にもう一層新たな意味性が重ねられ、体験が豊かになる、ということです。

能楽師の安田登さんが駒込の六義園について、「あれは当時の脳内ARだ」という話をされていたのですが、和歌にはたしかに体験を多重化するポエティックな力があります。

六義園には石柱があって、そこにはたとえば和歌の第一句が書かれています。「わかのうら」とかね。で、「わかのうら」と書かれていれば、それをみた人は、「和歌の浦に 潮満ち来れば 潟をなみ 葦辺をさして 鶴鳴き渡る」という山部赤人の歌が浮かばないといけないんです。そして、六義園の景色に自分の頭の中、脳内で思い浮かべた和歌浦の夕方の景色を重ねて、そこにこの歌にあるようにツルが飛んでいく景色を重ね、ツルの声も聞かないといけない。


『MASH UP踏切ハウス』の体験は、まちの背景として埋没していた、ありふれた雑音を前景化し、日常の中に新たな体験の景色を立ち上がらせます。『筆談カフェ』の中では日頃透明化している会話やコミュニケーションが、より深く異なる肌触りの中で感じ取れるようになるでしょう。

たとえていうなら、『MASH UP踏切ハウス』とはアッパーな『4'33"』であり、『筆談カフェ』は現代の茶の湯だということすらできるかもしれません。どちらもスゴイ技術とか予算を掛けてデカイことを仕掛けたわけではありませんが、ありふれたもので世界をかえるような新しい体験を生み出しています。

アートはしばしば世界の捉え方を不可逆な仕方で変えてしまいます。今回ノミネートされた「異種交創」は、その時だけ楽しむエンターテイメント・コンテンツとしてだけでなく、ポエティックなメタファーの「触発」によってそれに出会った人たちの世界を変えていく、そんな広がりも感じたのでした。



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