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VUCA・SDGs時代のアート思考的マネージャーに必要な[ゆれ/ノイズ/余白]のスキル

お疲れさまです。uni'que若宮です。


最近、企業のHR部門や組織系の研究機関、大学などの教育機関から組織や育成に「アート思考」を取り入れたい、というご相談をよくいただきます。そうした時によくお話するのですが、組織にアート思考を入れるには(トップ含めた)マネジメントのアップデートが必要です。

現場のプレイヤーや個人がアート思考に興味をもつだけではそれが生かされないのです。実際、企業でアート思考のワークショップや講演をすると、参加者からこんな声をよくいただきます。

「すごく気づきがありましたし、なぜいまアート思考が必要かわかりました。これからアート思考を実践していきたいと思います!…が、アート思考を会社でやると上司などの理解が得られなさそうなのですがどうしたらいいですか?

これ、ほんとに毎回のようによく聞かれる質問です。

(実はこの解決はアート思考のみでは難しく色々やり方にはコツがあるのですが)たしかに、組織が旧来の「工場のパラダイム」の論理で動いている「機械的組織」の場合、現場からアート思考を言ってもほぼ黙殺されるか、あるいは弾圧さえされるかもしれません。つまり、「アート思考」を組織で取り入れるためには、マネージャーやマネジメントの意識変容・行動変容が必要なのです。

そしてアート自体がそうであるように、「アート思考」は価値軸を多様化にするモーメントを持っており、ダイバーシティやインクルージョンともつながっています。SDGs経営へのシフトのためにもそうした「マネジメントのアップデート」は必要なので、今日は「アート思考的マネージャー」についてちょっと考えてみたいと思います。


1)「揺れ」や「混乱」を生む

先日、こちらの記事をシェアしたところ思った以上の反響をいただきました。

劇作家・平田オリザさんの演劇ワークショップについての記事です。環境問題について考えるワークショップなのですが、「意地悪な視点」をもつというのがユニークで演劇ならではのアプローチです。

よくあるビジネスや教育のワークショップだと、基本的にみんなで「いい考え」を出すように促されます。その結果、キレイだしよく出来てるけどどっかで聞いたことあるようなアウトプットになることが多いですよね。その時は気持ちいいんだけれどもセミナーが終わって日常に戻ると何ひとつ行動変容がなかったりします。(なので僕のワークショップでもあえてモヤモヤを残す設計にするのですが)平田オリザさんのワークではあえて「イヤなやつ」を考えるプロセスで「混乱」を生み、それによってちゃんと参加者の中に残る変容があるのが面白いですし、アートやフィクションの力を生かしたワークだと思います。


ビジネス界隈で「アート」の話をすると「美しさ」や「美意識」という言葉がよく使われます。しかし、僕はこれはちょっとミスリードだと思っていて、なぜならアートの価値は単にキレイとかおしゃれとか目を喜ばせる快さだけではなく、むしろある種の「不快」や「葛藤」にあると考えているからです。


少し話は逸れますが、ダイバーシティやインクルージョンについての問題で取り組んでいると、「無意識の偏見(アンコンシャス・バイアス)」を打ち破る難しさをよく感じます。


ジェンダーや人種に関する様々な偏見や差別、また(ほとんどコメディのような旧態依然とした)制度や保守的反発、因習、などなど…。ひとがいかに簡単に既存の価値観に囚われ、かつ囚われている事自体に気づけなくなっているか。まだ自分がバイアスを持っている自覚があればよいのですが、ほとんどの偏見は無意識であり、だからこそもっとも見直すことが難しいものです。

ここに、「固定」観念は、「固定」だからこそ気づかないという罠がある

人は「変化」や「運動」には注意を向けますが、動かないものには意識を向けることが難しいという(おそらくほとんど生物学的な)傾向があります。

またひとは思考する歳、「前提」や「基礎」を置きますが、ちょうど立っている時には地面のことをほとんど意識しないように、「自明」で「不変」のものとしてその土台の「安定」を疑いません。(論理というのは前提が誤っていれば容易に誤るのですが)


これに対して、アートは自明化・固定化した前提をゆるがし、それに気づかせる作用があります。(アート論的には「異化」といいます)

たとえば、千利休にはまさにそんな「異化」のエピソードがあります。利休は自分が亭主を務めたある茶会で

「鶴のハシ花入 塗板ニ置て 花は不入ニ水斗入」

を飾ったという記録があります。「鶴のハシ花入」というのはいわゆる花瓶なのですが、利休は「花は入れずに水だけをいれて飾った」というのです。

「花入」というのは、文字通り本来「花を入れるためのもの」です。それに花を入れずに飾ってしまうのがすごい。一般に花入には花を入れるという前提は「自明」ですから、普通のひとが知恵を絞るのは「どんな花を入れようか」「どんな風に花を飾ろうか」ということでしょう。

しかし利休はその前段階から揺るがしてしまう。花入なのに花が入っていない、しかし水だけがひたひたに入っている。利休の仕掛けを見た客はまさに固定観念を揺らされる体験をしたことでしょう。


VUCAと言われる不確実で変化のはやい時代、そして偏見をやぶり価値観を多様化していかなければならない時代、これからのマネジメントは自らやチームの固定観念をその基礎レベルからゆらし、偏見や盲目に気づき、変化していかなくてはなりません。

花入にとっての花のように、あなたの組織でもっとも自明で必須と思われている前提条件はなんでしょうか?もしその前提から変えるとしたら、組織や提供する価値はどのようなものに変化しうるでしょうか?

自らの土台となっている概念を揺さぶる運動は必ずしも快いものではありません。それは時にuncomfortableな葛藤を伴いますが、固定観念に気づき価値観をアップデートするために、「ゆれ」や「混乱」を生む力がこれからは求められてくるでしょう。


2)「ノイズ」や「聞こえない音」を聞く

「固定観念を捨てろ」といいながら、一方でなにか提案すると「なぜ?その根拠は?」と上司がロジカルな説明を求めすぎることも結構あります。

マネージャーは「決裁」や「意思決定」をしなければならないですし、「上」にも報告しなくてはいけないので、そのためにまず自分が「理解」したい気持ちはわかります。しかし「理屈で説明できること」や「データで示せるもの」は「過去」の産物ですから、あまりにそれに頼りすぎると「過去」ばかり向いた組織になってしまいます。

こうした罠に陥らないためには、あえて「ノイズ」に耳を澄ますことも必要です。なぜなら、新しいものや未分化なものはまずは「ノイズ」として表れてくるからです。


ダムタイプの『S/N』という僕が大好きなメディアアートの作品があります。題名の『S/N』とは「シグナル」と「ノイズ」を指し、音響機器などにおいて雑音の混入する度合い(S/N比)を暗示します。

しかしそもそも、自然音においてはシグナルとノイズというのは存在しません。シグナルというのは人間が規格化し意味付けしたものであり、「シグナル」が生まれるとそれ以外の「ノイズ」として排除され始めるのです。

↑は作品の中の一節の引用ですが、「世の中のコード」とあるように人間のコミュニケーションはコードによってなされます。たとえば「モールス信号」のようなコードに即してしていれば口笛でも意味を伝えることができますし、蝉の鳴き声を「ツクツクホーシ」だとか鳥の鳴き声を「ホーホケキョ」と聞いてしまうように、ひとは自然の音の中にも意味や言葉を読み取ろうする習性があります。

音の中から意味性を取り出そうとすると、「シグナル」以外の部分が「ノイズ」として「邪魔もの」になります。聴きやすさをもとめ、ひとはテクノロジーによりノイズを「カット」したり、さらには「キャンセル」するようにまでなりました。するとたしかに「聴きたいこと」はクリアに聞こえるようにはなりますが、そこから多くのことが消えてしまうのです。


これは音のことだけではありません。たとえば公の書類はいまだに「男性/女性」というコードになっています。しかしもちろん、人の属性は本来2つのシグナルだけで表せるものではありません。コードに合わせてそのいずれかに○をつける時、そこにそもそも存在したたくさんの微妙なニュアンスがは「ノイズ」として切り落とされ、抜け落ちていきます。

多くの上司が「お前の言っていることは分からん」とか「分かるように話せ」といいます。しかし、相手の言葉を自分が理解できる「シグナル」にしろ、というのは相手の本来的なあり方を無視して自分のコードに合わせさせることです。そこからは大切なものが抜け落ちているかもしれないし、無理にそれをするのは「暴力」ですらあるかもしれない。しかし多くのマネージャーがこうして消えた「声なき声」に気づかずに黙殺してしまっているのではないでしょうか。

あなたの組織では少数派の意見がノイズとして切り落とされてはいませんか?声なき声にされていませんか?

これからのマネージャーは自分にわかる「シグナル」だけではなく「ノイズ」を聞こうとし、モスキート音のように「聞こえない音」にも想像力を働かせる姿勢が求められてくるはずです。


3)「余白」と「想定外」をつくる

そして、これからの組織では「余白」をいかにつくるか、ということも重要です。

余白のない組織の典型は、マネージャーが「マイクロマネジメント」してしまう組織です。リモートワーク中にPCの前にいることをトラッキングできるツールを導入、という冗談のような話さえ現実に起こるのが今の日本の組織です。すべてを監視し、コントロールしようとする。これでは創造性は死んでしまいます。

また、もうひとつありがちなのが「任せるサギ」です。「任せた」といって最初は黙っているのですが、ことが自分の思い通り進まないと「そうじゃない」と言い出してしまう。これでは任せたことにはならず、自分が正解をもっていることを疑わずに穴埋め問題を解かせているような気持ちなので、むしろメンバーははっきり指示を出すマイクロマネジメントよりもやりづらいのです。

「余白」とはそうではなくて、「自分が正解を持っている」とは考えず、メンバーそれぞれの答えと信じ、そこで自分が思ってもいなかった「想定外」が起こることをむしろ期待することです。

あなたの組織ではメンバーが本当の意味で意思決定できますか?「想定外」が起こっていますか?

こうした「余白」があってこそ、メンバーが自ら動き、組織が変化していくことができます。


こんなマネージャーは嫌だ

1)「揺れ」や「混乱」を生む
2)「ノイズ」や「聞こえない音」を聞く
3)「余白」と「想定外」をつくる

かつての僕はまさにこれと反対でした。

「上が言ってるんだから言い訳せずに数字出せよ!」と前提を疑うこともなく、
「ちゃんと分かるように報告しろよ!」とわからないことは聞くことができず、
「そうじゃないよ!こうやるんだよ!」と仕事を取り上げる。

そういうリーダー(とすら呼べませんが)で上手くいくはずもなく、プロジェクトは空中分解しました。


こうしたマネジメントの方法は右肩あがりに消費拡大することを目指す「工場のパラダイム」では効率的でしたが、VUCAの時代、そしてSDGsの時代にはますます機能しなくなるでしょう。なぜならこのようなマネジメントは盲目で自分の価値観を見直すことができず、社会の変化に適応し変容して多様性を生かすことができず、チームの創造性を殺してしまうからです。


ダイバーシティといいつつ、「男女が違うのは差別ではなく区別」と割り切ってしまったり、インクルージョンと言いつつ先住民を植民地化するようにこちらの価値観に塗り替えてしまうようなことは起こっていないでしょうか?

まず自分が揺れ、価値観を見直すこと。「わからないもの」への想像力を持つこと。そして想定外のための余白をつくること。

そうしたスキルがますますこれからのマネージャーには求められてくるのではないでしょうか。



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