図1_3

スピード違反でつかまった人がいたとする。
「オレだけじゃないで。他の人もスピード出していたのに、なんでオレだけなんや。なんとかならへんか。」と言って、容赦を求める。昔からそういう人はいたけれど、最近、とみに増えている。

駐車禁止違反(駐禁)をとられて、
「たまたま停めただけやのに、駐禁をとられるのはおかしいんとちゃうか」と文句をいう人に、したり顔で「有料駐車場に停めたら、よかったんや。そんなところに路駐するから、駐禁になるんやで」と注意したその人が、今度は自分が路駐して駐禁をとられた。するとその人は、「勘弁してえや」「赦(ゆる)してえな」と容赦を求める。他人には厳しく、自分には甘い。

こんなシーンもよく見かける。
マスコミで「素晴らしい」と、とりあげられ、チヤホヤされて評判になった企業や人がある時、失敗したり、つまづいたりすると、率先して、その企業や人を叩く。話題になっているときは、なにも言わない。しかし本当はちょっとおかしいのとちがうか、ちがうんとちゃうかということに、みんな気づいている。それをいうと、自分が「排除」されるかもしれないので黙っている。しかし相手がズッコケたら、容赦なく攻める。なぜそうなるのかを考えてみる。

江戸時代の大坂・堂島米市場の商いは、世界初の先物取引だった。
春に種をまき苗を育て田植えして、稲の成長を見守り、秋に収穫する。そして全国から海路・陸路で運んで、お米を蔵に入れたときに決済する。それまでの間は、先物で米の商いをする。値段があがるとおもう人たちと、値段がさがるとおもう人たちがいて、先物取引が成り立つ。いろいろな思惑が入り混じり、得をする人の数だけ損をする人がいる。それが世の中だった。

天下の台所と言われた大坂経済を「先物取引」がささえた。
「損をする人の分だけ得をする人がいる」ということを、経済観念やモラルのなかに、しっかりと内包していた。この本質は現代も同じ。株で大儲けした人がいるということは、どこかで大損をした人がいるということを受け入れなければ、社会・経済は成り立たない。大儲けする人たちだけで市場は構成されるのでも、大損する人だけで構成されるのでもない。

それが変わりつつある。
株で損が出た。損をした人は「オレはだまされた」「なんとかならへんか」などと言って、やはり容赦を求める。しかし株で損した人の分だけ、株で得した人がいる。損をした人の分が配分されるから、経済は成り立つ。それが、みんな株で得をすることだけを考えるようになった。

なんやかんやと、「容赦」を求める。
自分が失敗したり、うまくいかなかったり、損をしたりしたら、「なんとかしてえや」「もうええやろ」「もういっぺんやらして」と容赦を求める。しかし自分でない他人、他社が失敗したり損をしたら、決して容赦を許さない。「それはあかんで」と徹底的に攻撃する。やはり他人に厳しく、自分には甘い。

自分に甘く他人に甘くなると、どうなるか。
なんでもかんでも「容赦」が認められると、「公序良俗」という社会全体のモラルだけでなく、収益性がさがる。本来、社会には損をする人も得をする人もいて、損と得が「入れ子」になって、社会に分配されていくということを許容しなければ、世の中はおかしくなる。その構造が崩れていく。



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