「ノイジー・マイノリティ」という言葉を"noise(雑音)"から再考する 〜その疎外と抑圧の機制
お疲れさまです。uni'que若宮です。
突然ですが、「ノイジー・マイノリティ」って聞いたことありますでしょうか?
こちらによると、
ということだそう。対義語には「サイレント・マジョリティ」があり、「クレーマーと同義語」と言われているように、割とネガティブな表現として使われることが多いように思います。
「ノイジー・マイノリティ」という言い方でマイノリティの声が封じられる
ですがちょっと最近、「ノイジー・マイノリティ」という言い方に違和感というか、危うさを感じています。というのは、あまりこれが安易に使われると「マジョリティ」側が「マイノリティ」側の声を封じる(いわゆる「トーン・ポリシング」的な)手段になりかねないという気がするのです。
たとえば、あることに対して違和感を感じ声を上げる人がいたとします。それが少数派の主張だった時に「ノイジー・マイノリティ」や「クレーマー」という言い方で片付けられてしまって良いものでしょうか?
というのも、何かに対して声を挙げるのはマイノリティからのことがそもそも多いと思うのです。
さきほど「サイレント・マジョリティ」という言葉がありましたが、「マジョリティ」がどうして「サイレント」でいられるのかというと「大して困っていないから」という部分があります。なぜなら、社会は「多数派」や「強者」に最適化されて設計されているのでマジョリティは不便やバリア(障害)を感じる事が少ないからです。
そうした多数派に最適化された仕組みに合わせるように無理強いされ困っている人たちは必然的に「マイノリティ(少数派)」であることが多いのです。
だとすると、そもそも声を上げる人自体が「マイノリティ」になりがちなわけでそれを「口うるさい少数派」と片付けるのってフェアじゃないのではと…。
先程の記事で、
とありますが、少数派の意見もその中には(たとえ多数派や提供者側にとって「耳が痛い」ものだったとしても)ちゃんと声を聞くべきものがあるはずです。
「ノイジー」を"noise"から再考する
「ノイジー・マイノリティ」の「マイノリティ」について、社会的弱者からの訴えが多いことも念頭に置く必要がある、という話をしました。
では「ノイジー」の方はどうでしょうか?
まずその元となる「noise」について調べてみると
とあります。ここで注意したいのはノイズって、必ずしも「声が大きい」っていう意味ではないということです。「雑音」「(原因不明の)異音」などとあるように「よくわからない音」も「noise」なんですね。
マイノリティが発する声にはこうした「雑音」的異質性があります。聞く側が理解できないものは「雑音」として処理されてしまったり、「不快」として排除されてしまったりする(ノイズ・キャンセリング)。
ダムタイプという僕が日本で最もリスペクトするメディア・アーティスト集団がいるのですが、彼らの作品に『S/N』という名作があります。
「シグナル」に対する「ノイズ」。信号として理解可能なものが「シグナル」で、それ以外は「ノイズ」になってしまう。
『S/N』は1995年、いまから四半世紀も前にLGBTQの等身大の声をテーマにしました。「男性/女性」というバイナリーな「シグナル」しか認められない時代においては、「LGBTQ」は「ノイズ」(=雑音、不快な音、(原因不明の)異音)に他ならなかったでしょう。
作品中の台詞を引用します。
しかし本来、なにを「ノイズ」と受け取るか、というのは相対的かつ恣意的なものです。大多数の人が共通了解のもとに理解できるものが「シグナル」であり、それに合わないもの、「読解されない」ものは「ノイズ」とされてしまうのです。
そして、先に引いた辞書の中に
とあるように、「シグナル」が期待される時、それ以外の「ノイズ」は「シグナル」をかき乱す「邪魔者」にされがちです。
「ノイズ」でなくなるためには「シグナル」の「コード」に合わせることが求められます。「マイノリティ」が「ノイジー」でなくなるためには「マジョリティ」の「コード」に合わせなければならない。この構造的非対称性による暗黙のプレッシャーこそ、「シグナルの暴力」ではないでしょうか。
『S/N』では何度もこんな言葉が繰り返されます。
「性別」も「国籍」も「人種」も人間が恣意的に決めた、ただの「シグナル」にすぎません。本来、はじめにあったのは混沌であり、そこにはノイズしかありませんでした。しかし、ひとたびシグナルという分節が定められるとそこに当てはまらないものが「ノイズ」とされ、邪魔者にされてしまうという疎外がここにはあります。
「ノイジー」はなぜ、声が大きくなりがちか?
今見たように「noise」ということは「雑音」や「異音」なだけですが、「noisy」と辞書で引くと
というふうに「騒々しい」と「目立つ」というような意味が出てきます。類義語でいうと「loud(声が大きい)」に近い、「がちゃがちゃとうるさい」っていう感じですね。
ではマイノリティがなぜ「ノイジー」にならざるを得ないか、というと、その声が届きづらいからです。
少数派の声というのは普通の声で話すとかき消されてしまったり黙殺されたりしがちです。そうするとどうしても、だんだん声が大きくなってしまう。少数派をそういう状況に追いやっていながら、それを「ノイジー」(うるさい)と片付けることはどうなのか。「トーン・ポリシング」もこの構造を逆手にとったマジョリティによる抑圧の機制だということができるかもしれません。
問題なのは「ノイジー」ではなく、攻撃的であること
以上のことを考えると、
という事情があり、ある意味では「マイノリティ」の声は「必然的にノイジー」だということです。
マイノリティの声はマジョリティにとってはしばしば「耳障り」であったり「邪魔」そして「不快」なものでもあったりもします。しかし、こうした声を「ノイジー」とか「クレーマー」として切り捨ててしまうことはダイバーシティの観点から正しいことでしょうか。
むしろマジョリティ側には(理解しづらいからこそ)マイノリティの「ノイジー」な声を聴こうとする想像力こそが必要な気がします。
といっても、「ノイジー・マイノリティ」のすべての声をただ聴き入れるべきか、というとそうでもありません。なかには単に攻撃的だったり、人を傷つけるような暴力性をもったものもあり、それはやはり避けされるべきものだからです。
この記事にあるように、最初は「正義感」だったものがエスカレートし、人に対する攻撃になってしまうケースがあります。
ブレイディみかこさんの『僕はぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』という本に、クラスでエスカレートするいじめについてこんな言葉があります。「母ちゃん」の「人間って、よってたかって人をいじめるのが好きだからね」といった言葉に対する息子さんの言葉です。
人は「正義」の御旗を持つと攻撃的になりがちです。自分とはちがう価値観を「不快」だからと駆逐し、排除しようとします。
いけないのはノイジーさではなく、この変質した攻撃性であり、社会やシステムを変えるべく働きかける目的を見失って「人」を攻撃することではないでしょうか。
もし「マイノリティ」が自分たちの声を届けようとするのみならず、それに従わない誰かを排除しようとするなら、「ノイズのパラドクス」のようなことが起こります。社会にとって「ノイズ」たる自分たちの声を届けるはずが、自分たちを「正義」とし攻撃的になった結果、思い通りにならないものを「ノイズ」として消し去ろうとするのです(キャンセル・カルチャー)。しかしそれでは、自分たちが憤っていたマジョリティの身振りと同じことをしているのではないでしょうか。
以上みたように、「ノイジー・マイノリティ」という言い方には「マジョリティ側の都合や想像力の欠如」とそれによる抑圧や疎外の機制が潜んでおり注意が必要です。「マジョリティ」の側にいるとき、僕たちは意識的に(自分たちにとって耳が痛かったり不快だったとしても)「ノイズ」に耳を澄まし耳を傾ける姿勢をもつ必要があるでしょう。
「マイノリティ」の側にある時には、多数派の「シグナル」や「コード」に合わせすぎてしまうことなく、「ノイズ」として声を発することがまず重要です。しかし、ただただ大声でがなればいいというものでもないかもしれません。聴いてほしいはずの声でも激しくなりすぎると、かえって人々の耳を塞がせてしまい、届かなくなってしまうからです。
そしてまた、それが攻撃性に転化して個人への攻撃に変質してしまうとしたら、これはまったくの本末転倒です。
「ノイズ・キャンセリング」の技術をつかって、自分が聞きたい音だけを選ぶことは快適なことです。しかし、それは「フィルター・バブル」となり、自分と異なる価値観や異質性を排除することにつながってしまうかもしれません。
「ノイズ(雑音、不快な音、(原因不明の)異音)」とどのように付き合い、社会が複雑性を内包しつつしなやかであるためにはどうしたらいいのか、それを時に「マジョリティ」に、時に「マイノリティ」になりながら、みんなで一緒に考えていけるとよいなと思っています。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?