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「出会う」ためにはまず「出る」ことが必要である

新海誠監督の「すずめの戸締り」が地上波で初公開されて、Xはその話題で持ち切りになっていた。たくさんのファンがいる中で、本作について私如きが考察をするのははばかられるのでやめておくが、この作品において私個人が感じた「とても大事なこと」について一点だけ書いておきたい。

それは、本作に何度も流れるひとつの言葉「いってらっしゃい」にもかかわるが、「出る」という行動についでである。

主人公岩戸鈴芽は自ら望んだわけではないが、九州から東北までの旅をする羽目になる。そのきっかけは、草太という青年との第一の出会いだが、この映画には、主人公の大事な「出会い」がこれを含めて全部で5つある。

第二の出会いは、うっかりフェリーに乗ってしまった先の愛媛で同い年の快活な少女千果と出会う。鈴芽が必死になって何かをしようとし、泥だらけに帰ってきた姿に一応は聞くものの、結局深い詮索はせずに送り出す。なぜか千果の実家の経営する旅館はその夜だけ大繁盛する。

続いて、第三の出会いは、愛媛から神戸に行こうとしてヒッチハイクもままならず、バスは6時間待ちという中で、鈴芽を気にかけて拾ってくれたのがシングルマザーでスナックのママであるルミである。
鈴芽は神戸まで送り届けてもらえるものの、ルミの子の面倒だけではなく、謎にその日だけ客が大勢やってきててんやわんやの店の手伝いまでさせられる。
ルミは内心鈴芽を「家出娘」だと思っているが、ここでも深くは立ち入らず、鈴芽を送り出す。

第四は、東京から仙台に行く芹澤の車に無理やり同乗してきた鈴芽の母の妹である環。といっても、環は鈴芽の母がなくなってから鈴芽を育ててきた育ての親であり、ずっと一緒にいた相手であるから、「出会う」というのはおかしいのでは?と思うかもしれない。
しかし、映画の中では、互いに今まで言えなかった思いをぶつけあい、あの刹那やっと二人の心と心が「出会った」と言えるだろう。

そして、最後の第五の出会いは、鈴芽が彼女の幼い自分自身(死んだ母を泣きながら探し回っている)との出会いである。
幼い鈴芽は本当は母親がもう死んでしまったことはわかっていた。わかっていたけど探し回らざるを得なかった。やめてしまった時には絶望しかないから。
しかし、そんなかつての自分に対して、大人になって数々の経験といろんな人との出会い、特にこの戸締りの旅を始めてからの4つの出会いによって変わった自分から自分へのメッセージを届ける。「それでも明日は来る」と。

ちなみに、拙著「居場所がない人たち」にて書いたテーマこそ、この「自分自身が出ていくことで自分自身と出会える」というものだ。
本の中では「居場所なんかなくていい。出場所を作れ」と書いている。わかりやすくいえば、旅をして、見知らぬ土地や人と出会い、その出会いを通じて感じ取った何かは自分にとっても相手にとっても「新しい自分の扉を開ける」ことに通じるという話だ(旅じゃなくてもいいのだが)。

なぜそれが大切かというと、見知らぬ人との出会い(接続)とは、出る人(旅人)にとっても居る人(その土地の人)にとっても「刹那の神様」との出会いだからである。
神様といってもキリスト教やイスラム教などの神ではない。日本人ならなんとなくわかっているであろう「ありとあらゆるところに神は宿る」という類のものだ。

民俗学者の折口信夫はそれを「マレビト(稀人)」と呼んだ。いつも日常的に会う人ではなく、どこからきてどこへ行くかわからない旅人のこと。現代とは違い、昔はそういう人とは別れたら二度と会えないものだった。
日本人はそうした「マレビト」を神のように歓待し、送り出していった。服装や言葉が違っても、考え方が相容れなくても「ふむふむ」と話を聞いて「そういう人」ということでもてなしたわけである。

ここで大事なのは刹那の接続でしかない「マレビト」だからそうしたのであって、この「マレビト」がもしその土地に住み着いたとしたら、その土地のしきたりや規範に無理やりでも合わせそうとする。だって住み着いた時点でもうマレビトでも神様でもないから。

対する旅人からの視点でも行く先々でいろいろと世話になる土地の人は「マレビト」なのである。
お互いに神様との出会いであるからこそ、双方にとってその出会いは自分の中に「その人と出会っていなければ生まれてこなかった新しい自分との出会い」を生み出すのだ。

だからこそ、最後の第五の出会い「かつての自分との出会い」において、「自分に対するメッセージ」を届けることができる。これはいうなれば、自己と向き合うというメタファーでもある。

他者との出会いは、自分が意識していなくても何かしらの変化を自分の中に及ぼしている、だから、それがあった時となかった時とでは同じ自分自身でも「何かか変わっている」ことに気付くはずだ。

第四の出会いで、いつも同じ屋根の下で暮らしていた育ての母の環と鈴芽は、旅先での「出場所」において、互いに「マレビト」として出会い直して、互いの中で化学反応があった。だからあの時二人は新しい出会いをしたと言えると思うのだ。

ちなみに、誰かとの出会いで生まれた「新しい自分」が増えたら、次の移動先ではその付加された自分も含めた新しい自分が「マレビト」として次に出会った相手に何かを与えることにもなります。

人との出会いはそれだけで何かを与える行動なのです。


新海監督がインタビューで本作は「移動と出会いと贈与をめぐる物語」と言っていた。

もちろん、このアニメの良い点はそれだけではないですが、若い時だけではなく、おじさんやおばさん、それこそおじいちゃんやおばあちゃんになってもいつでも誰もが誰かの「マレビト」になれます。旅をしなくても、いつもの日常の中でも見知らぬ誰かと接続する機会はある。見知った相手でも「出場所」次第で新しい発見がある。

でも、接続するためには、部屋にとじこもっていてはダメなんです。ネットで接続できるとかいう問題ではない。リアルに対面しないと接続にはならない。「出会い」とは「会う」前に「出る」が必要なのだ。

居場所なんかどうでもいいんすわ。居場所なんてものに縛られるから窮屈になる。たくさんの出場所があれば、どこに居たってあなたはあなたの拡張ができる。


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荒川和久/独身研究家・コラムニスト
長年の会社勤めを辞めて、文筆家として独立しました。これからは、皆さまの支援が直接生活費になります。なにとぞサポートいただけると大変助かります。よろしくお願いします。