そして、公園から人が消え、看板だけが残された
最近の公園は何もできなくなっているようです。
「騒がないで」
「犬連れ込まないで」
「猫に餌をあげないで」
「キャッチボール禁止」
「ボール遊び禁止」
「花火禁止」
「スケートボード禁止」
「大縄跳び禁止」
「合唱はお控えください」
「団体でのランニングなどのトレーニングは許可していません」
「ベンチの長時間利用はご遠慮ください」
もう何もできない…。
そもそも論として、公園で法的に違法でもないことを「するな」という禁止行為自体がおかしい。誰かからクレーム入れられたからと禁止看板する行政もどうかと思います。
以下は、記事にもあった豊島区の人の話。
「苦情を寄せる住民は、今すぐ対処してほしいと思っています。行政として迅速に対応するには、看板を立てるしかないんです。禁止看板ばかりだと景観がよくないですし、利用者が少なくなっているところもあります」。
要するに、「クレーマーがうるさくて面倒くせえから、とりあえず禁止看板だけおいておけ」という話なんですよ。景観がよくないとかそこじゃないだろって話。なんでそんな他人事なの?
一部の声のでかいクレーマーの要求だけが通る世界なんて異常です。
記事内の足立区の取り組みはまだマシだと思います。禁止看板ではなく、「できる看板」を置くっていうもの。
でも、本質的には、「何をしていい」とか「何をしちゃだめだ」とか規定すること自体違うよねと思います。今も各地にはびこる学校の理解しがたい「校則」なんてのもそれに似たようなものでしょ。
人間が快適に過ごすためにこそルールはあるべきなのに、ルールに支配されて人間が苦痛を感じるようになってどうするよ?って話。
以前、公園にあった遊具がとりはずされたりもしましたが、あれはクレーマーからの「子どもの声がうるさい」以外に、親から「遊具で怪我したらどうするんだ」という声も反映したものだけど、そういう理由とは違った部分で僕は遊具なしの公園には賛成なんです。
用意された遊具で遊ぶというより、学校も公園ももっとクリエイティブな場所であるべき。何もないところでも、子どもたちは遊びを創造し、大人たちは憩いの場を創造し、高齢者たちは穏やかな時間を創造すればいい。
昭和の広場なんて「ドラえもん」のシーンにもあるように土管しかなかったよね。
ちなみに、うちの近くの公園は、遊具は何もありませんが、子どもたちが走り回り、ボール遊びも大縄飛びもバドミントンもキャッチボールもなんでもやっています。誰かがシャボン玉をしていれば、多分初対面の子どもたちがその周りで騒いでいたりする。ジョギングする若者や高齢者もいます。ギター弾き語っている外国人もいる。夏には日焼けしている若者もいる。ピクニックバッグを持って、デートしているカップルもいる。それぞれがそれぞれの楽しみ方をしている。それが公園というものでしょ?
誰も何もしていない、笑い声さえ聞こえない、バカなクレーマーと事なかれ主義の役所の人間によって作られた、人間ではなく「看板だらけの公園」に何の意味があるというのでしょう?
公園とは「交園」だと思います。
人が交わり、笑い声が交わり、ある人の喜びもある人の哀しみも、いろんな人の感情が交わる場所です。
かつて強固だった地域コミュニティは崩壊し、現在は隣に誰が住んでいるかさえわからない状態です。そんな中、少なくとも近所の人達が集い、それぞれに楽しむ場である公園というのは、貴重な場であり、ある種の「接続するコミュニティ」だと思うのです。
僕は、その公園を通るたび、別に何の血縁もないですが、元気に走り回る子どもたちを見て、とても満ち足りた気分にさせていただいています。来週も再来週もまた元気に笑って遊んでいられますように、と。
禁止看板をどうしても置くというなら、僕は1枚だけ以下の禁止看板を置きます。
「公園にクレーム言うの禁止! 」
※追記
本記事は、直接的に「公園と禁止看板の問題」を書いてもいますが、同時に暗喩表現でもあります。公園を「表現の場」、看板を「誰かが勝手に作りあげた正義」と置き換えても、そのまま今の社会を表しています。ここでいう正義とは、「誰かが不快と感じた感情を理屈づけしただけの正義」です。世の中の正義なんてものは、大抵そんなものが大半で、所詮感情なのです。反対に快楽感情を正義に理屈付けする人はいません。そう考えると正義なんてものは不幸な人間による不快による支配なんじゃないでしょうか?
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