SNS時代における「人間のコモディティ化」
今日は最初にまとめを書きますね。SNSと表現にまつわる「ある現象」について、1月頭にこんな記事を書きました。ずいぶんたくさんの人に読んでいただきました。
この中で、「コモディティ」という言葉を取り上げました。経済用語ですが、「代替可能な製品」という感じの意味です。2020年代は、あらゆるクリエイティブや表現が、SNS上において「コモディティ化」の危機に晒され、その速度は加速化される運命にある、というようなことを書きました。これはたぶん避けるのが難しい未来だと思っています。
ただ、少しその後から気になっていたのは、「コモディティ化されるのは本当に表現やクリエイティブの方なんだろうか?」ということでした。そして結論ですが、それは単なる表に出てきた結果に過ぎず、SNSにおいてコモディティと化してしまうのは、我々人間の方ではないのか、というのが今日の結論です。そしてその結論に対して我々はどのように対処する必要があるのかということを最後に書いています。
1. 24時間の船旅
この2月の頭に、僕は小笠原諸島に11日間滞在していました。その旅の経緯は、現在滞在記としてnoteに書いているところです。
そこで最初に書いた記事は、小笠原に入る前の船旅の記事でした。Day 0として書いたその記事では、小笠原に行くための現在たった一つの航路である「おがさわら丸」での、24時間の船旅について書いています。その中で僕はこんなことを書きました。
コロナを奇貨として捉えることができる可能性があるとするならば、この「止まったこと」自体の経験によって、僕らの社会を再検証する機会を得たことだろう。僕らが捨て去ってきた空間や余白、「距離を隔てるもの」の中にあった物語の中に手を伸ばす、そんな瞬間を模索するための通過儀礼として、この24時間の船旅は僕の感情を揺さぶりつつある。(上記記事より引用)
24時間の船旅を、僕はある種の「通過儀礼」のように感じました。その根源を考えると、やはりネットに全く繋がらないという経験が大事だったのでしょう。そしてその後、小笠原に着いたあとは普通にネットに接続できるようになるのですが、振り返ってみると11日間の滞在の間、ほとんどインターネットを使わなかった気がします。もちろん全くゼロではなかったのですが、ひたすら写真を撮っていると、ネットに使う時間がなくなったんですね。
さらに大事だったのは、小笠原に滞在している間、ほとんどSNSをみてる余裕がなかったという点だと思います。そしてその状態は、興味深いことに、僕にとってはすごく気分が良かった。一言で言えば、自分の内側の「SNSを見なくてはいけない」というような、一種の強迫衝動にも似た義務感から完全に解放された気楽さでした。太陽の光の下で、美しい海を見ながら、ただ撮りたい写真だけに没頭して、書きたいことを記している11日間は、一言で言えば楽園そのものだったんです。
その時は単に「ああ、最高の経験だなあ」と思っていたのですが、旅を終えて自分の「職場」に帰り、「現実」が帰ってくると、小笠原での体験は僕には極めて特異な経験であったことが前景化し始めました。あんなふうにSNSを見ないで済む時間が、どれほど自分にとってプラスであったか、そして逆に言えば、SNSをみるということを通じて、僕自身がどれほど抑圧されていたのか、その抑圧の度合いを可視化できる基準が、小笠原の旅を通じて僕が得た最も大切な経験であったことに気づきます。
2. 「人間のコモディティ化」
このことは、僕らの精神に対してSNSがいかに巨大な影響を与えているかを改めて考え直すいい機会になりました。ほとんど空気のように遍在するインターネットと、そのインターネットと現在ほぼ同義のように機能しているSNSは、僕らの「現実」の生活の中に空気のように溶け込んでしまっている。そしてその「空気」を吸い続ける先に待っているのは何か。それは「人間のコモディティ化」なんです。
毎日トレンドが更新され、バズが発生し、それを強制的に見させることのできるSNSというシステムは、ビッグデータに吸い上げられた僕ら自身の関心と、それが導く近い未来の総体であることは、Netflixが去年世の中に問うた「監視資本主義」というドキュメンタリー映画に明確に示されました。
この映画を見れば、SNSの巨人たちの情報の集積能力と個人への影響の的確さからは、基本的には誰も逃れることができません。程度の差はあれど、SNSに触れる限り、僕らの精神はある程度まではSNS中毒に似た症状を示すようになります。本物のドラッグやお酒にどれだけ抵抗したところで、生物である以上必ず中毒になるのと、ほぼ同じ意味において。
これによって、僕らの精神は、僕ら自身のコントロールを離れ、独自性や自主性を喪失し、ビッグデータに集積された「大きな流れ」を再演するだけの因数の一つに成り果てます。自分でした選択と思ったリツイートも、自分の好みが反映していると考える「いいね!」も、その根本は、そのように反応するためにSNSというシステムが準備した、想定範囲内の振る舞いでしかありません。SNSのシステム内で、人がアノマリー(異分子)になることは、ほぼ不可能なんです。
そしてそれを敷衍すると、僕らの表現、僕らのクリエイティブも、SNSという場を主戦場として経由する場合は、僕ら自身が選択したはずの表現もクリエイティブも、SNSのビッグデータ内に流通するものとして選ばされた、「見えない強制力」が働いた結果生まれたものへと、どんどん最適化されて行くという運命を辿ることになります。これが一番最初に記事に書いた「表現のコモディティ化」として表層に現れた現在の状況ですが、根源を辿れば、我々自身のSNSへの最適化が生み出したもの、つまり、SNSでコモディティ化しているのは、僕ら人間の魂なんです。そしてそうなってしまうと、SNSの中で僕らは僕ら自身である必要はなくなる。ただの「リアクション生成器」として、ビッグデータの中の代替可能な関数の一つになってしまうのです。
3. 「うっせぇわ」から「レディメイド」の破壊へ
こんな状況は特殊なものに見えるかもしれませんが、すでに僕ら以上に電子ネイティブな若い世代は、おそらく薄々SNSがもたらす魂の牢獄のような状況に強く苛立ち、反抗を始めようとしています。そう思ったのは、去年末頃から急激に話題にされるようになったミュージシャンAdoさんの音楽を聞いた時でした。彼女はまだ18歳の高校生だそうです。「うっせぇわ」という単語を、みなさんどこかで見たことがあるでしょう。こんな曲です。
初めて聞いた時、震えが来ました。もちろん、音楽そのものもそうですが、18歳の高校生(この曲は17歳最後の日に公開されたそうですが)が、ここに書かれた歌詞にこんなにもリアリティと切迫感を与えることができるという、この状況そのものにです。歌詞のサビの歌詞を三つ書き出してみます。
その可もなく不可もないメロディー
うっせぇうっせぇうっせぇわ
二番煎じ言い換えのパロディ
うっせぇうっせぇうっせぇわ
何回聞かせるんだそのメモリー
うっせぇうっせぇうっせぇわ
歌詞の全体は典型的なカウンターカルチャー的な感性、「丸め込まれた大人と社会」に対する、繊細で賢い若者の強烈なカウンターパンチなんですが、サビの中で「うっせぇわ」と名指しで攻撃される対象は、一言でいえば3回ともに「代替物」です。「可もなく不可もないメロディ」も「二番煎じ言い換えのパロディ」も「何回聞かせるんだそのメモリー」も、溢れかえるSNSで生まれる代替物への苛立ちと捉えることができます。もちろんAdoさん自身はSNSを批判したいわけでは無いと思うのですが、この状況、同じものが繰り返し繰り返し高速で溢れかえるSNSに常在している我々は、自分の主体性が剥奪され、誰かのモノマネでもあるかのように、コモディティと化した言説やアイデアや表現や主張をおこなってしまう。そこから切り離されたいと願ったところで、その願いや行動自体が瞬く間にビッグデータに回収されて、同じ志を持った人間の同質性の中でエコーチェンバーが心地よく響く世界へと押し込まれてしまう。SNSにいる限り、僕らは自分自身がコモディティとして回収されることに抵抗するのは、極めて難しい。そう言わざるを得ないんです。
だからこそ「うっせぇわ」の次の曲は、まるで運命でもあるかのように「レディメイド」をAdoは歌います。レディメイドとは「既製品」のことであり、それはまさにコモディティ的な存在の象徴です。僕ら自身が「既製品」のようになっている世界をぶっ飛ばしたいと願う曲を、Adoは強く歌い上げます。
この曲や歌詞自体は、もしかしたらもっと年齢が上の世代の大人が書いているのかもしれません。でも、Adoの声は、この歌詞が持つ意味を、彼女が余すことなくリアルなものとして受け取って、その感情を声として受肉できるほどに切実に感じていることを十分に証明しているように思うのです。
4. 「一つの指輪」の持つ力
こんな絶望的な状況、特にクリエイティブの周縁でなんとか生きている僕のようなフォトグラファーにとって、四方八方逃げ場がないように見えるこうした状況を、どうやって生き抜くべきなのか。
ヒントは二つありました。もちろん、一つは最初に書いた小笠原での経験です。24時間の船旅と、そこからの小笠原での11日間の滞在は、僕の中に「現実の世界は実は想像しているよりもずっと抑圧が強い」という、SNSに依存して中毒してしまっている自分の状況を、極めてリアリティのある形で自覚を促してくれるようになりました。
ただ、いつだって小笠原に行けるわけでもなく、僕のようなフリーランスに近いクリエイターは、SNS無しには仕事を続けることさえできません。ここは強調しておかなければならないんですが、この記事で悪魔の発明のように書いているSNSに、多くのクリエイターたちは明らかに恩恵を受けています。僕ももちろんその一人で、人生がよくなったきっかけの大半は、SNSからもたらされたものです。これは絶対に認識しておかねばならないことです。この感覚がなければ、SNSに関する全ての議論が、基盤のない夢物語になります。
大事なのは、その功績を確たるものとして理解した上で、劇薬としてのSNSの姿を明瞭に捉える視野を持つことです。SNSが強力な呪力を発揮して現実を良くすればするほど、コインの裏表のように僕らの心も体も縛り付け、社会全体がそれなしでは動かない状況に陥ってしまいます。つまり、SNSは世界を変革できるほどの力があるからこそ、使い方を間違って仕舞えば、それは世界の崩壊へとつながるほどの力を持ち得るということです。それはまさに、『指輪物語』における「全てを統べる一つの指輪」のようなものです。
全てを支配することができる力があるがゆえに、その所持者を破滅へと導いてしまう強力な指輪は、時代時代の「圧倒的な力を持つもの」の象徴的な比喩として機能してきました。今ではまさにSNSこそが、「一つの指輪」として機能し始めているように思うのです。
だからこそ、『指輪物語』において、物語の目的は、悪の化身である「サウロン」を滅ぼすことではなく、この「一つの指輪」を完全に破壊することになるわけです。
物語において悪の領域である「モルドール」の「滅びの火口」へと「一つの指輪」は投げ入れられるのですが、我々の世界でSNSを滅ぼすようなことはもはや不可能ですし、そんな世界は僕自身も含めてほとんどの人は望んでいないでしょう。恩恵が大きいからです。
5. 「バズっている写真を見かけたらミュート」と、友人は言った
でも、ある程度の距離は置くことは必要です。それを友人が示唆してくれました。
この前の記事でも、最後のまとめに濱田英明さんの記事で締めてしまって、また同じことをしているんですが、読んでもらえればわかるように、第一線の最先端を走っている写真家でありながら、濱田さんはSNSとの関係性には常にある一定の線引きを施しているような気がします。それこそが、この文章の中で冒頭に書かれていることに象徴的に現れています。
実は「バズ」っている写真を見かけたらミュートしています(ごめんなさい)。なんだか不穏な出だしですね。でも、これには理由があるんです。(上記記事より引用)
バズっている写真を見たらミュートするというのは、確かに濱田さん自身が言うように不穏に見えますが、記事を読めばわかるように、これは「表現の純度」をいかにしてこのSNS全盛の世界において守るのかという話へとつながります。
「バズ」の写真とは、一言で言えば、ビッグデータに選ばれた、のちに究極のコモディティを生み出す写真のことです。それを見て、それに巻き込まれることは、その後に続く「一つの表現のコモディティ化」を促進する因子となることに同意することに他なりません。
一方、この「バズ」という、SNSの全ての功罪を象徴する現象から目を逸らすことは、自己の社会的死、社会的不在を招きかねないリスクもあります。濱田さん自身も、このように書いています。
ただ、これは構造的に常に現在進行形でトレンドを追っていくSNSに対する「死」を意味するかもしれません。下手をすると自分自身という蛙を狭くて深い井の中に追い込むことにもなってしまいます。時流を読むことができず筋違いの方に向かってしまうかもしれないのですから。(とはいえ、現実ではむしろあらゆる方法で写真にまみれて生きています)
しかし、それでも表現の純度を高めながら、同時にポピュラリティも担保することはできないのか? バズという論理の外でどう写真を生み出していくか? その文脈に回収されずにそれでもたくさん見てもらうには?
この疑問への回答は、ぜひ記事を読んでみてください。クリエイターにとっては必読の文章になっています。
そう、僕らは、自らの魂がコモディティそのものへと変化する前に、SNSをセルフコントロール出来るスキルや技術や環境をこれから構築していく必要があります。キーワードは「デジタルウェルビーイング」になるのでしょう。
6. まとめ:「21世紀のゾンビ」を生み出さないために
そろそろまとめに入りたいと思います。デジタルウェルビーイングという、もしかしたら耳慣れない言葉の話でまとめる前に、日経で面白い記事を先日読みました。文化人類学者の小川さやかさんが寄稿されている「ゾンビはいる!?」という記事です。
この記事のまとめで、「現代のゾンビ」とは、まさに今回の記事で書いた「コモディティ化された人間」のことだと思ったのです。今回の記事は、このゾンビという小川さんの表現と、僕自身が書いた「表現のコモディティ」という問題とが合わさった場所に生まれた考察でした。
さて、自分自身がSNSのゾンビに、SNSのコモディティにならないために、僕らは何をすべきなのか。それこそが2018年にGoogleが提唱した「デジタルウェルビーイング」という概念です。
すぐにその後Appleもまた同様の機能搭載を発表したように、2018年の段階で我々のスマホ依存、SNS依存への対策が世界的に始まりましたが、そこから3年で改善したかというと、むしろ2021年現在においてはより深刻な「監視資本主義社会」がもたらされていることは、Netflixの映画で指摘された通りです。
大事なことは多分、機能や環境だけではなく、我々自身がこの今の状況に対して違和感を感じることなのでしょう。デジタルウェルビーイングとして大文字化されてしまうと、急に自分ごとではなくなってしまう状況を、自分の領域に引き込むことが大事なんです。そうやって「自分ごと」の領域に持っていって、その問題点を洗い出した時に、初めて「自分ごと」として、SNSに対処できる。その一つの好例が、濱田さんの「バズった写真はミュートする」なんです。
もちろん、対処の仕方は多様にあります。誰もがバズを無視する必要もありません。でも、何かをしなくては、このままでは自分もゾンビになってしまう、その前に何が出来るかを考える時期にそろそろ来ているということです。
でもここまでディストピア的な状況を説明しながら、実は最後に、僕は楽観を語りたいんです。
7. ディストピアで見る小さな夢
この「幸福は悪夢」のような状況において、ささやかだけれど大切なことを僕は最後に小さな声でお伝えしておきたいと思います。それこそ、繰り返しになりますが、小笠原です。たった24時間の船旅と、たった11日間のSNSからの離脱だけで、僕は自分を取り戻せた気がしました。そこで撮った写真は、自分でも誇らしくなるような、生気に満ちた「クリエイティブ」として、今毎日見返しています。こんな簡単なことで、僕は今、ある程度SNSから距離を離せる「自分空間」を維持しています。
1月の頭に書いた「表現のコモディティ化」の文章では、まるでもう、僕らには表現の余白が残っていないかのような書き振りになってしまいました。僕は実はそれを今反省しています。
SNSから離れ、空を見て、太陽の光だけを浴びて、海を求め、風の歌を聴いて過ごした11日間。たった11日間!その写真は、僕には僕だけの写真に思えました。表現は無限に残されている。それはつまり、僕ら人間は、決してコモディティにはなり得ないという希望のようなものです。
もちろん小笠原に行くのは割と大変です。でも、小笠原でなくてもいい。どこか自分の心を少し休める空間を持つこと。20世紀の冒頭、ヴァージニア・ウルフが言った「自分だけの部屋」を、心の中に持つこと。なんでも簡単につながってしまうSNSが世界の隅々まで遍在する状況になったからこそ、そこから切り離された、自分の世界が必要なんです。
それを探すことからまずは初めてみてください。一つ「基準」ができれば、あとはそれを繰り返していけばいいのですから。
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