自由を謳歌したいか?ー経産省「責任あるサプライチェーン等における人権尊重のためのガイドライン」をどう読むか?
この半世紀、多くの議論は「人間を優先するか?経済を優先するか?」の二択に集中してきました。今世紀になり「地球環境を優先するべき」との観点が時を追って強大になり、三つ巴になっていると言えるでしょう。
民主主義か権威主義かの話題も、往々にして「民主主義は効率的ではない。劣化したシステム運営」と言われ、結局は前述の「人間を優先するか?経済成果を優先するか?」の範疇に嵌りやすい。結果的にというべきか、民主主義は世界の人口の3割しか享受していません。それも急激な勢いで減っています。
今回は、この推移の背景を考えてみたいです。
人間をどう見るか?
これまで何度もnoteでも紹介してきた図があります。ストックホルム経済大学でイノベーションを教える『突破するデザイン』の著者、ロベルト・ベルガンティがよく使う図です。テクノロジー、ビジネス、人間の関係を三角形で表現しています。
左右の三角形に対して、2つの表現をしています。以下です。
つまり、民主主義圏と言われる国々においても、本来の意味での「人間優先」ではなく、「経済優先」のもとでの人々との傾向が強かったとベルガンティは指摘しているのです。
彼が「人々が中心」という欧州においても、経済優先がないわけではありません。第二次世界大戦でつくづく近隣同士の争いの不毛さを避けるべきと考えたことで欧州連合構想がより具体的に進んだのは、ご存知のように、経済的な関係を強化すれば無駄な争いを抑制できるだろうとの期待をバックにしていました。
ここでいう「経済効果」は目的が違いますが、上図の三角形にすれば、その正当性が欧州においても左側の色彩が続いてきたことは否めません。だから、EUにしても、右側の推進を強く図ろうとしているわけです。下の写真にあるように、イノベーションの主役はエンジニアや科学者ではなく、女性や多様な人種・民族であると強調しているのは、こうした背景に基づくでしょう。
この数年、多くのシーンで盛んに使われる批判ロジックは「結局、それは経済・産業目的の機械的システムであって、生きる人間が視野の中心におかれていない。したがって、その見方そのものを変える必要がある」です。似たようでいて、実は根本が異なるとの解釈を披露する。
だが、「人間優先か?経済優先か?」と聞けば、「どちらも大事に決まっているじゃない」を捨て台詞じみた言葉で避ける。当然、両方が大切なのですが、「捨て台詞じみた」その点に、今、あらたに立ち向かう大切さに気付き始めている人が”増えていそうな現象”があります。その一端が、ここにあります。
自由を謳歌したいか?
今から10年くらい前、気になる現象が起こってきました。中国のビジネスや技術革新の賑わいをみて、「人々の自由は制限されているが、経済的な豊かさを優先しているようだ。彼らが選んでいる道だから、我々の口出すことではない」と話す外国人がそれなりの数でいました。文化相対主義の立場と言い換えてよいか躊躇しますが、自由や民主主義を相対化しているのは確かです。
ただ、かつて共産主義圏にあった東ヨーロッパの人との話題にこのようなエピソードを出すと、「とんでもない!」とのコメントが返ってきました。「私たちがもっとも優先すべきは、人々が自由にものを考え、判断できる社会だ」と。
冷戦の終結で自由を獲得し、それを十二分に享受している人たち。一方、自分でさほど工夫して努力しなくても生きながらえられた時代を懐かしむ人たち。その両方のタイプがいます。そこそこに生きられる環境があるなら、自由であることは必須ではないと位置づけるのです。ですから、皆が皆、自由を最優先したいと考えているわけでもないことは、はっきりしています。
しかし、自由にあまり積極的でなかった人たちも、今年の2月末以降の大きな混乱のなかで「やはり、強権政治下に生きるのは嫌だ」と思っている印象があります。というか、もの心ついた時は冷戦後の世界であったので、「積極的に自由の獲得を望む」ことを経験していない世代の人たちが、自由を失うことに急激に恐怖心を抱いているのでしょう。
他方、もともと自由と経済の両方を十分に満喫できていない国に住む人たちは、まずはサバイバルを考える傾向にあるはずです。あまりに非人間的な惨い風景が日常生活のなかで展開されない限り、です。この按配を外国人ー特に西洋人ーが読み間違えると、かの国の人たちからは反感や反発しか返ってこないです。多分、その読み間違えの顕在化が、上記の「民主主義国家の数は減っている」に見られるのでしょう。
時分で考え判断しないと社会として学ぶ契機がない(記録が残らない)
自由や民主主義が大文字のものとして尊重され促進されてきたのは、その地域に生きる人たちが自分で考え判断していく日常生活を送らないと、地域に知恵を活用するデータが残り可視化されないと認識しているからだ、とぼくは理解しています。
権威主義のトップとその取り巻きがある地域を治めると、一時的な現象としては「輝かしいエポック」をつくることもあります。歴史を振り返っても、そういう事例は幾多もあります。そのような事例は、多く、「独裁政権の作り方、運営の仕方」として、どこか離れた地域や違った時代の権威主義の為政者の参考になります。
一方、地域に生活する人々の生きた証とその知恵が継続的に伝わる機会を喪失するケースが多々あります。即ち、長期的に社会が脆弱になる、別の言葉を使えば、レジリエンスに欠けた社会になります。
「自由や民主主義は西洋の概念であるから」との枕詞を添えて、いかにも客観を装う文化相対主義の顔をした人の発言が往々にして怪しいのは、それこそリアルな社会のなかに十分に生きていない匂いではないかと想像します。
ここで一つ具体的な課題ー人権尊重のためのガイドライン
少々長々と自由や民主主義について書いてきましたが、「やっぱり遠い話」と思う人も少なくないと思います。それでは、今年9月13日、経産省が発行した「責任あるサプライチェーン等における人権尊重のためのガイドライン」をどう読むか?です。
特に、権威主義の国があなたのビジネスのサプライチェーンの重要な部分を占めている場合、「自由」「人権」への強い感度が一層求められます。さて、どうする?です。
写真©Ken Anzai
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