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軽井沢から学ぶ「ブランド」の意味。その魅力はつねに中心部ではなく辺境に育つ

 長野県屈指のリゾート地である軽井沢町が、「軽井沢」という名前を安易に拡大して使わないことを求めています。近隣の市町村にある施設が「軽井沢」という冠をつけるケースが後を絶たず、「町外の事業者による不適切な使用が目立つといい、ブランド価値の維持に乗り出す」。

 ブランド価値を維持するのはもちろん大切なことだし、軽井沢町の呼びかけにとくだん反対はありません。そもそも強制力のある呼びかけでもありません。ただ一点わたしが引っかかるのは、軽井沢町が言う「ブランド価値」とはいったいどのような価値なのかということです。

軽井沢に十年滞在して肌感覚でわかったこと

 わたしは東日本大震災の年、いつか来る首都直下地震に備えようとリスク分散のために軽井沢に家を借り、途中一度の引っ越しをはさんで、もう十年もこの土地に付き合っています。月に一度、一週間ほどは滞在しているので、年に百日近くは軽井沢で過ごしている計算になります。そして十年もいると、街の変遷はそこそこ見えてくる。

 通りすがる観光客からの視点では、軽井沢の名所は第一には新幹線駅前の巨大アウトレット「軽井沢ショッピングプラザ」であり、第二には古くからの観光地である旧軽井沢銀座でしょう。しかし別荘族もふくめた長期的な軽井沢滞在者は、それらの施設にはあんまり足を向けません。長く軽井沢とつきあっていると、その本質的な魅力は高原の針葉樹の森であり、周辺地区に点在するレストランやパン屋さん、デリといった個人経営のお店であることがしみじみとわかってきます。

 私もコメンテーターを務めている番組「アベマプライム」では先日、この軽井沢町のブランド話を取りあげ、藤巻進町長にもリモート出演していただきました。藤巻町長も「軽井沢のいちばんの魅力は、静かな自然環境です」と仰ったのです。

街の「発展」と「魅力」はイコールではない

 軽井沢に限らずどこのリゾート地でもそうですが、街が発展し人が増えることは必ずしも街の魅力を増すことにはつながりません。逆に魅力が減じることもあります。これは都市でも同じです。東京で言えば、たとえば下北沢ははかつて個人経営の店が多く魅力的な街でしたが、小田急線の地下化とともに再開発が進んだ結果、駅前には大手チェーン店が激増し、以前のようなサブカルチャー的な魅力は薄れてしまいました。

 最近だと中目黒も当てはまりそうです。かつてはひっそりとした「隠れ家」風の街で、だからこそ芸能人がけっこう住んでるなんて言われていましたが、イエローハットがドンキホーテに変わり、近くにEXILEのエンターテインメント企業LDH JAPANの本社やスタジオができ、目黒川の花見が有名になり、駅前再開発で蔦谷書店ができて…とどんどんメジャーな街へと変身していっています。この結果、個人経営の店は周辺の池尻大橋や祐天寺、学芸大などに逃げだしていっている。この結果、周辺地域のほうが魅力的なエリアに育ってきています。

原宿はなぜウラハラを生みだしたのか

 これを「アベマプライム」で話したら、一緒にコメンテーターをやっているハヤカワ五味さんが「原宿もそうですよねえ」と同意してくれました。今の地方の若い子が、夢にまで見た「おしゃれな原宿」を目指して上京し行ってみると、意外にも地元にあるチェーン店と同じような店ばかりでがっかりするそうです。

 ファッションの街としての草創期の原宿は、まだたいへん静かな土地でした。スタイリストの中村のんさんが、1970年代初頭の原宿をこう描写しています。「神宮前の交差点にそびえる白亜の東京中央教会(のちにラフォーレ原宿)、人も車もまばらだった表参道と両脇のけやき並木、当時でもレトロに見えた同潤会アパート、ポツンポツンと点在するブティックや喫茶店のおしゃれな店構え、輸入品が並ぶオリンピアコーポ、白人のお客さんしかいないエキゾチックなオリエンタルバザー。原宿に吹く風は、憧れの異国の匂いがしたものでした」(『70’ HARAJUKU』小学館、2015年)

 当時の原宿に若手のファッションデザイナーやスタイリストが多く集まったのは、ひとつには渋谷や新宿よりも家賃が安かったからでしょう。しかしファッションの街として原宿が注目されるようになり、1978年にはラフォーレ原宿がオープンし、人気を高めていくと、家賃も高騰し、実績も収入も少ない若手クリエイターではオフィスは借りられなくなり、代わって大手企業や有名チェーンが進出してくるようになります。そこで若手たちは、相対的に家賃の安かった渋谷川遊歩道周辺や、明治通りを超えた原宿通りに仕事場をかまえるようになる。これがつまり1990年代以降の裏原宿(ウラハラ)の誕生というわけです。

街は成長すると、中心から辺境へと魅力が移動する

 このように街というのは、成長すればするほどに、つねに中心からマージナル(周辺、境界、限界)なエリアへと魅力が移動していくのです。街の中心部を支配する人たちは、中心部の価値を守ろうとしますが、その時にはすでにその街の魅力がマージナルに移動してしまっているのです。言い換えれば、街の価値を守ろうと思うのは、すでに中心部の魅力が薄れつつあることを無意識のうちに認識しているからかもしれません。

 ここまで書いて、おわかりいただけたでしょうか。軽井沢が「軽井沢という地名を周辺地域では使わないでほしい」と呼びかけるのは、原宿がウラハラに対して「原宿という名前を使わないでほしい」と言っているのに等しいということなのです。

 実際、軽井沢でも魅力的な個人経営の店は旧軽井沢や駅前などの中心部ではなく、「星のや」がある中軽井沢、さらにはその先の追分や隣接の御代田町など、西へ移動していっています。幼小中の一貫校「風越学園」が昨年開校した南の方角の発地エリアも、最近は店が増えています。軽井沢は東を碓氷峠に塞がれ、北は浅間山が立ちはだかっているので、マージナルは南西に伸びていくという地理的要因があるのです。

 これからの旅は、名所旧跡をめぐる一過性の観光旅行ではなく、その土地と人に愛着を感じる滞在型であると言われるようになりました。この傾向はコロナ禍でさらに加速していくでしょう。そういう視点で見つめ直すと、街のブランドというのは決して中心部のチェーン店化した商業地ではなく、マージナルに広がる土地の魅力によって支えられていくことが実は大切なのです。


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