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哲学的思索と日常生活の間に距離はないはずーー意味のイノベーションの障害を考える(日本滞在記5)

昨日、日本からミラノに戻ったので、これは日本滞在記の最後です。前回は「街を単機能で見ない -15分都市で考えるべきこと」を書きましたが、今回はビジネスにおける日常生活観と哲学的思索とされる領域のギャップを話題にします。

作家の重松清さんがインタビューのなかで、次のように語っています。

温かく優しく、しかし鋭さもあるその筆致で描く食事は、誰もが持っている食の記憶を思い起こさせる。「思い出とともにあるからこそ、メシはうまいのだ」という。

日常生活のなかにある経験や感覚が人の思考のベースにあると言えますが、日本語の感覚では日常生活の言葉と哲学的思索の言葉が距離をもちやすく、それがビジネスのなかでも足を引っ張るケースが多いと思います。そのことを「意味のイノベーション」のワークショップでも再認識したのです。

「意味のイノベーション」のワークショップ

8月24日ー25日、意味のイノベーションのワークショップを東京で開催しました。意味のイノベーションとは、問題解決領域へのデザインパワーの過剰供給に対してバランスをとるアプローチとして、現在、ストックホルム経済大学でイノベーションやリーダーシップを教えるロベルト・ベルガンティ(トップの写真の人です)が提起するものです。

センスメイキングをどう生むか?ですね。問題解決のための方法論は世の中に溢れていますが、同様に重要な意味付けへのアプローチに関してはノーマークであったというわけです。

2017年、ぼくは彼の著作、"Overcrowded"の日本語版監修に関わりました。日経BP社から『突破するデザイン』として出版され、それ以来、意味のイノベーションのエバンジェリスト的役割を任じてきました。mctという東京のデザインコンサルタント企業がパートナーになってくれた、今回のワークショップのコーディネートもその一つです。

(ベルガンティには、ハーバードビジネススクールで2週間の集中講座を行ったあと、直接、ボストンから東京に来てもらったのですが、ビザ取得から日本行きフライト72時間前のPCR検査に至るまで、えらく労力を費やされるだけでなく神経をつかうプロジェクトでした。9月7日からPCR検査はワクチン接種を3回済んでいれば不要になったので、次は早期のビザ不要の決定を願っています。あまりに心臓に悪い!!)

そこで感じたのは、意味のイノベーションを純粋な哲学的思索であると思ってしまう、あるいは思いたい傾向が日本の人には強い、ということです。もちろん、西洋言語圏においても、似た傾向がないとは言わないです。しかし、日本語の使用空間において、特徴としてそれを思う、ということです。

「ライフ」を人生と日常生活に分ける日本語

前述の傾向がどう表出するかといえば、意味のイノベーション自体を「哲学的思索なのか?日常の実践なのか?」と問い、2つを区別しようとします。

実は、意味のイノベーションは、市場の顧客の声を聞いたり観察するよりも、企画者の想いー人々が欲しいと思う、愛したいと思うものは何だろうか?と考えるーを重視します。したがって、問題解決と比較して高位にあると思われやすいです。

確かに、ベルガンティ自身、「問題解決の上にある、人々の望むものが意味である」との言い方をします。しかし、これは、問題解決と意味づけを2つに分け、前者を日常の実践と位置づけ、後者を哲学的思索とするわけではないです。

問題解決も意味付けも、人が生きるとの世界のなかの重要な要素で一体化したものです。それにも関わらず「哲学的思索なのか?日常の実践なのか?」と考えてしまう。

このタイプの疑問がでる理由として、思いつくことがあります。それは英語の「ライフ」にあたる言葉は、日本語において最低3つに分かれることです。「生命」「人生」「日常生活」です。日常生活の細々した行為と人生観がなかなかダイレクトに繋がらないのです。しかし、日常生活の実践と人が生きるにあたり感じる、または考える意味とは、繋がっていない方がおかしい。

哲学を難しいものと思ってしまう、または思いたい

よく西洋哲学の言葉が日本語に翻訳され、理解の難しさを招いていると指摘されます。

漢字による熟語が多いのもありますが、西洋哲学の多くの言葉が専門用語として生まれておらず、実際の生活でふつうに使われている言葉がそのまま哲学の領域の言葉として使われているー--との事情が、理解の壁を作っています。

こうしたところにも、哲学的思索と日常の実践に距離を作ってしまう背景があります。そして、それが哲学を難しいものにするだけでなく、「難しいものを相手にしている自分は優れている」との無用なプライドを導いてしまうのです。

意味のイノベーションをビジネスで実践する際、これらが「邪魔者」になるのです。日常の行為にある具体的な、あるいは実質的な要素を軽んじてしまうのですね。

結果、全体像を眺めるつもりが、その逆に陥ってしまうのです。部分的な像を全体だと思い込んでしまう、と。

日本語のもつ世界観や感覚を客観的にみる

日本語のもつ世界観や感覚を、たまに第三者的立場からみることは、思いのほか大切です。なにも海外の市場や企業とビジネスをするから大切なだけでなく、上述のように、ものごとを全体的に把握するのに役立つのです。

日本文化はハイコンテクスト文化にあり、暗黙の了解が行きわたりやすく、また東洋の思想はあまり分析的にみないとの傾向であるとの認識はもつ人が多いです。全体性を掴むに優れているのが我々の文化の特徴だ、と。

しかしながら、言葉の「ライフ」のように、逆に日本語の方が全体像を見づらいこともあるわけです。ですから、我々がどんな世界観と感覚で生きているかを意識することで見える風景はガラリと変わるはずです。

言葉のもつ感覚に敏感になることです。


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