台座と額縁・組織のしくみと自分の在り方 建築家の個展会場から
モニュメントとして中心にたつもの。
フレームとして中心を囲うもの。
建築家の長岡勉さんの個展にて刺激を得ました。
今回は、その個展会場で考えた、組織と個人との関わりについて書いてみたいと思います。
モニュメントとフレーム
個展情報は、こちらです。
長岡 勉 企画展「pedestal & frame」
モニュメントの周りには人が集まります。自らが中心となり、その中心性ゆえに、人が取り囲み、見つめる。共視の構造をつくるとともに、権威的なものを感じられる場合もあります。
フレームは、人を取り囲みます。中心に人を据え、外と隔てる。
コロナ前に、家族でイギリスに行った際に、彩色銅版画を買いました。帰国後、新宿の世界堂で、どのような額にするか、あーでもないこーでもないと迷いました。
友人の画家の福津宣人さんの絵を納める額も時間をかけて検討しました。キャンバスの横に流れる絵の具を隠さずに見るための立体的な額が、この絵を納めるものとして最適と思われました。
組織におけるモニュメントとフレーム
人が活躍する環境も、このフレームと同じかもしれません。
その人のポテンシャルを引き出し、さらに成長を促すためのフレームとはどのようなものなのでしょうか。
組織と人との関係を、モニュメントとフレームとして考えたとき、組織の理念がモニュメントになり、人がそこに集う形が生まれます。
そして、集まった人が属する場として、組織構造がフレームとして機能します。
フレームとの相性
そうしたとき、その組織フレームの中で、その人の潜在力が引き出され成長が促されるかどうかは、相性によるのではないでしょうか。
そもそも、冒頭の長岡さんのフレームの考えでいけば、中心には人があるはずです。しかし、既存の組織フレームは、組織フレーム自体が中心にあるように思えることもあります。
組織フレームは、粒度を変えれば家族や友人関係や国家にまで広げられるものかもしれません。
人が中心にあるはずのフレームが、フレームそのもが中心性をもってしまうことで、人が中心になることが難しくなる。
自分の人生は、自分が主人公であり、自分が中心である。そのはずである。しかし、こうしたフレームに自分を乗せることで、自分の主人公感がないがしろになされてしまう。
距離と立ち位置
以前読んだ『ルーズな文化とタイトな文化』という心揺さぶられるタイトルの本でも、一方の文化で魅力ある人物が他方の文化では蔑まれることがある、と書いてありました。
フレームと自分の相性がよければ、もしくはフレームに自分を寄り添わせることができれば、フレームの中心に近いところに自分を置くことができるでしょう。さもなくば、フレームの周辺に佇むことになり、その周辺に佇む当事者にとっては、そのフレームが呪わしいモニュメントのように見えるのかもしれません。
自分の在り方は、どのような環境に身を置くかで大きく変わります。モニュメントにもフレームにもなり得る環境そのものを眺め、どのくらいの距離感で、どのような立ち位置をとるか、それが大切なのかもしれません。