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「偏愛・夢中」と「依存・中毒」の違いをアート思考とSDGs観点から考えてみる

お疲れさまです。uni'que若宮です。

このところ、「偏愛」や「夢中」と「依存」「中毒」はどうちがうのか、ということを考えていたので、今日はちょっとそのことを書きたいと思います。


偏愛・夢中/依存・中毒は「善悪」で判別可能か?

「偏愛」「夢中」と「依存」「中毒」のちがいを考えた時、一般的な判別ポイントとしては「善悪」つまり「よいか/わるいか」という判断の仕方がありそうな気がします。

たとえば薬物などの「依存」「中毒」はありますが、薬物の「偏愛」「夢中」という言葉はあまり使いません。であればそれが「よいこと」か「わるいこと」かでこれらを区別できるでしょうか?よいことをするのは「偏愛」や「夢中」、悪いことをすると「依存」や「中毒」といったように。


しかし少し考えると、「よい/わるい」というのもその行為や対象単体で判断できないことがわかります。

たとえば「お酒」はそれ自体で「悪」というわけではありません。お酒に対する「偏愛」や「夢中」というのもありえます。「恋愛」もそうです。「彼に夢中」な状態はそれ自体では悪いものではありません。しかし、それが行き過ぎると「依存」や「中毒」状態になってしまうこともあります。何に偏愛しているか、何に夢中か、というような対象の「よい/わるい」によって両者を区別できるものではなく、対象が同じであってもどちらもの状態があることになります。


なぜ最初にこのことを指摘しておきたいかというと、たとえば「正義中毒」という問題について考えたいからです。もし「善悪」で判断するとこうした「一見よいもの」への「中毒」を見過ごしたり誤解してしまうおそれがあります。

「正義」や「正論」はそれ自体としては「よい」もののはずですが、それでも「中毒」になってしまうことがある。そしてそうなった時、自分がしていることは「正義」であり「よい」と思い込んでしまうために、余計に「依存」や「中毒」に気づかず、正当化し歯止めが効かなくなります。

まず強調しておきたいのは、「偏愛」「夢中」と「依存」「中毒」は二分法的に区別できるものではなく、同じ対象でも気づかないうちに「依存」「中毒」に陥っていってしまうような地続きのものだということです。


偏愛・夢中/依存・中毒は「自主性」で判別可能か?

次に考えられることとして「自主性」があるでしょうか。

依存や中毒は「やりたくないのにやっている」という状態に思え、受動的な状態に思えます。それに対し、「偏愛」や「夢中」は自らの判断でその行動を行っているように思えます。

しかし、この区別も、実はなかなか難しいと思っています。


たとえば、アート思考では「偏愛」は自分起点のヒントとよく言いますが、それは「偏愛」が理屈を超えた熱量を生み出し、常識をうちやぶる他とはちがうユニークな価値を生み出すことができるからです。

「偏愛」は理屈を超えているがために時に非合理に思えます。自分でもよくわからない衝動的なものに思えたり、「気がつくとやってしまうこと」とか「やりすぎてしまうこと」のゾーンだったりします。宇川さんの言葉を借りれば「病」や「患者」というゾーンです。

「ぼくは以前から、アートというのは人間の「病」を扱う領域だと言っていて。」

「アートは毒で、デザインは薬。医師がデザイナーだとすれば、アーティストは患者という視点でアートを捉えています。だからこそ一人一人症状が全く違うわけです。」


そもそも、「偏愛する」ことや「夢中になる」ことは本当に「主体的」「能動的」にできるのでしょうか?

実は人の感情や行為というのは私たちが思っているほどには能動的ではなかったりします。アート思考では「中動態」という考え方をするのですが、感情や行動は主体が完全にコントロールできるものではないのですね。

たとえば「怒る」というのは能動的な行動でしょうか?「よし、怒ろう」といって怒れるものでありませんし、怒りたくなくても子供のしたことに腹を立ててしまう、ということは誰もが日常的に経験することでしょう。こうした時、本当に能動的に「私が子供に対して怒る」のでしょうか、それとも受動的に「子供に怒らされている」のでしょうか?

誰かを好きになる、というのも同じです。「恋に落ちる」という言葉がありますが、それは主体的・能動的に選択し決断出来るものでは実はなく、相手との出会いによって意図に反して起こる出来事だったりします。「偏愛」は、だからこそ自分にとっても予想や理屈を超えたものなのです。同じく、「よし、夢中になるぞ」として何かに夢中になれるものでもありません。

以上のように「偏愛」「夢中」にも本人の意図や意思を超えた受動的な性質があり、「能動/受動」で簡単に分けられないことがわかります。


こうして「偏愛」「夢中」と「依存」「中毒」は「善悪」や「主体性」によって区別できず実は地続きである、というのを改めて確認した上で、今回はそれとはちがう構造的な観点からそれぞれを位置付けてみたいと思います。


「サステナビリティ」から評価する

先程お酒や恋愛の例を出したように、対象や行動自体には「よい・わるい」が無いものがあります。まずはその例にそって考えてみます。

なぜ、お酒への「依存」や「中毒」はいけないのでしょうか?嗜好品や「百薬の長」でもありうるものが、どうした場合に「悪」に変わるのでしょうか?対象自体に善悪がないのだとすると、善悪は結果によって判断されることになるでしょう。

つまり、それが「破滅」をもたらす時には悪い、ということです。依存や中毒はやがて破滅をもたらします。「百薬の長」の名が本当で、もしそれが飲めば飲むほどに健康になるようなものであったり、いつまでも継続できることならなにも問題がないはずです。しかし、アルコールは摂取し続けると健康を害し、やがて死にすらいたります。ましてや「依存」の状態になると「もっと!もっと!」と欲求の「量」が肥大化していきますから加速度的に「破滅」に向かうことになります。

恋愛も同じく「彼女に夢中」と言っているだけならよいでしょうが、そこに「執着」が生まれ「依存」するようになるとやがてお互いの生活を「害する」ようになり、継続が難しくなります。


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こうして「サステナビリティ」の観点からお酒や恋愛について考えるとわかるように、「破滅的」にならずに「ほどほど」を調整し、続けていけるのであればそれは害にはなりません。

ですから、「サステナブルにセーブできるか」は「偏愛」「夢中」から「依存」「中毒」ゾーンにどれだけ踏み入れているかを測るモノサシにできると思います。

そしてここから先程の「主体性」の謎も解けてきます。もし、「このままいくと破滅」だと言うことがわかっているのにそれを「止めることができない」のなら、それは「依存」「中毒」です。一方、(好きだからこそ)長く継続するために「やりすぎ」ず「止める」ことができるなら、それはサステナブルな「偏愛」や「夢中」にとどまります。

ここに少しわかりづらい逆説があります。「偏愛」や「夢中」が「能動的」「主体的」と見えるのは、自ら行為を起こせるからではなく、その行為を「止める」という選択肢を持てるからなのです。「偏愛」や「夢中」は短期的な欲求を優先し「破滅」することはありません。将来の「破滅」があったら、「止める」ことができる。逆説的ながら「止めることができるからこそサステナブル」なのです。


しかし、最初に述べたように「偏愛」や「夢中」も理屈や合理的判断を超えたものです。それにも関わらずなぜ「止める」ことができるのでしょうか?

この点については逆から考えてみましょう。なぜ「依存」や「中毒」では「止める」ことができないのでしょうか?

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それは対象と「離れられない」という状態に陥っているからです。「偏愛」や「夢中」ももちろん、対象に接しているとドーパミンが出まくりますが、対象から「離れる」ことができないかというとそうでもありません。恋愛においても「離れられないか離れられるか」は必ずしも愛情の量と相関しません。戦地にいるパートナーを想い続けるとか逝去した配偶者を愛し続けるとか、「離れる」ことは、むしろ深い愛情によってこそ可能になります。「離れても平気」だからこそ、「止める」という選択肢を持つことが出来るし、だからこそサステナブルでいられるのです。


「世界の広がり」による評価

ではどうして「依存」や「中毒」が対象と「離れられない」かというと、対象を通じた世界との関係が減るからです。

「依存」「中毒」状態になると、ひとは他のひとからの助言や異なる考え方を受け入れられなくなります。「依存」「中毒」ではひとは、他者との関係性を断絶していき、「対象と自分しかいない状態」にどんどん陥っていくのです。そしてまた、それによって世界との関係性が減れば減るほど、対象と「離れられない」状態にあり、依存度があがっていくのです。こうして「依存」「中毒」の人は「閉塞」に陥り、「破滅」に向かっていくのです。


これに対し「偏愛」や「夢中」では、「対象」を通じて世界との関係性が増えていきます。たとえばお酒でも健全な「偏愛」の場合には、どんどん色々なお酒を知っていったり、色んな人からのアドバイスを求めたり、どんどん世界が広がっていくのです。これはいうまでもなく「アルコール中毒」とは真逆の方向性ですが、こうした広がりができるためには、アート思考的な「余白」も必要です。

そして世界が広がり、関係性が増えるからこそ「偏愛」や「夢中」は「対象を離れる」こともできるのです。熊谷晋一郎さんがおっしゃっているように、「自立とは依存先を増やすこと」だからです。


それによって世界が広がっていっているか、閉塞しているか?

たとえば子育てにおいても、チャレンジする可能性や色んな意見を聞ける状態であれば育児に意欲的に「偏愛」や「夢中」で関わることはよいことです。しかしいつの間にか「依存」「中毒」になり、子供や自分たちの選択肢をどんどん狭めていっているケースも多いのではないでしょうか?そしてそういう親はいつの間にか子供と「離れられない」依存の親になってしまいます。

冒頭の「正義中毒」も同じです。「正義中毒」になるとひとは、別の意見をまったく聞けない状態になり、人を「正義」によって切り離すことで周りから人がいなくなり、世界が狭まり「正義」への依存度がまずますあがってしまいます。こうした状態は、たとえ最初は本心から「正義」のために起こした言動でも、やがて閉塞し憔悴した依存状態へと陥り、いずれは「破滅」へとつながってしまいかねません。


SDGs的なあり方

このように「サステナビリティ」や「世界の広がり」という観点から「依存」や「中毒」をみると、それがSDGs的なあり方とも通じていることがわかります。

まず重要なのは、「偏愛」「夢中」が「依存」「中毒」と地続きであることを理解することです。誰であれ、またたとえそれが「正義」のような「善」的なものであっても、「執着」というティッピングポイントを超え世界との関係を拒絶し始め「離れられない」状態になると、気づかないうちに「依存」「中毒」に変質してしまうので注意が必要なのです。

これは経営においても当てはまります。「利益」や「成長」に「偏愛」や「夢中」なうちは良いでしょうが、それだけが至上命題となり、他の価値観を受け入れられなくなり、「利益依存」「成長中毒」の状態になってしまっている企業は存外に多いのではないでしょうか。そしてそのことに気づけなかったり、気づいたとしても「止める」ことができなくなってしまう。

20世紀型の資本主義は「消費依存」「消費中毒」の時代だったともいえるかもしれません。しかしそれでは「サステナブル」ではないことにやっと気づいてきた。私たちはそれを「止める」ことができるでしょうか?他の価値観を受け入れ、世界を広げる方向を選ぶことができるでしょうか?

いま日本の政治や企業をみても、サステナブルを考えて「止める」ことや他の選択肢を持つことができず、新しい価値観を拒絶してますます閉塞的になり、「破滅」に向かい続けてしまう「末期」の中毒状態になっていることも多い気がします。(組織のwell-beingがキーワードになっているのも、こうした「依存」や「中毒」の問題に気づいてきたからかもしれません)


「偏愛」や「夢中」をもつことは重要です。それは「閉塞感を打ち破る」鍵でもあるからです。

しかしそれがいつしか執着となり、地続きである閉塞的な「依存」や「中毒」になってしまう危険性は誰しもあるのです。そうならないために、いつの間にか「止める」や「離れる」ができなくなっていないか、閉塞と憔悴に陥らず世界が広がっていく開放感の中で生きられているか、振り返ってみる必要もあるのかもしれません。

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