ケナンが否定した「アジア版NATO」の実現可能性
「アジア版NATO」構想の波紋
石破茂新自民党総裁のハドソン研究所論文が話題となっております。色々な方が論評されていますが、私自身は多くの方々同様に、ここで提案されている「アジア版NATO」構想の実現可能性には懐疑的です。
また、この石破論文での議論の核心は、「アジア版NATO」の創設ではなく、むしろ10年前の安保法制導入の頃からの持論である「国家安全保障基本法の制定」と、「米英同盟なみに日米同盟を強化する」という部分だと、私は考えています。
すなわち、より全体的、全面的な集団的自衛権の行使が可能となるさらなる「国家安全保障基本法」の制定や、アメリカに対して「対等性」を要求し、日米同盟が内包する一定の「不平等性」を解消することが、それを求める際の石破氏の政治的な目的とされているのだろうと考えています。
現在の平和安全法制では、「存立危機事態」という自国の個別的自衛権に関連する範囲でしか集団的自衛権は行使できません。そのような平和安全法制に、石破氏はこれまでの批判的でした。恒久法であり、より全面的な集団的自衛権の行使が可能となる「国家安全保障基本法」が必要であることを唱えてきた石破氏からすれば、その延長線上に「アジア版NATO」創設の可能性が浮上してくるのかも知れません。
英米関係はほんとうに対等なのか?
2000年に公表された第1次アーミテージ=ナイ報告書では、「米英同盟なみに日米同盟を強化する」という提言がなされています。石破論文においてはその提言を参照しながら、「対等なパートナー」という箇所で、日米同盟を「特別な関係」に発展させる必要が指摘されています。
とはいえ、英米関係もそれほど単純ではありません。その「特別性(specialness)」や「対等性(equality)」についても、イギリス国内でも繰り返し、議論がなされてきました。詳細については、かつて細谷雄一「米英同盟と大西洋同盟―「特別な関係」の歴史」久保文明編『アメリカにとって同盟とはなにか』(中央公論新社、2013年)で論じています。
英米には二国間の同盟条約はなく、その同盟の法的根拠は北大西洋条約です。他方、NATOでは軍事機構のトップの欧州連合軍最高司令官(SACEUR)のポストは歴代20人全員が米軍人で、フランスはこのポストを欧州と交互にするよう要望しており、石破新総裁が考えるほど英米同盟は単純に「対等なパートナー」とは断定できない面も見られ、その「非対称性」にイギリス政府は繰り返し、困難や苦難を経験してきました。同盟の協力関係に、過度なナショナリズムを持ち込むことは危険です。
「アジア版NATO」が挫折した歴史
そもそも1949年以降米国務省内では、「太平洋協定(a Pacific pact)」のようなかたちで多国間で安全保障協定を創り、より水平的で公平な防衛義務を負うことを求める志向性が見られまた。当時のフィリピンのエルピディオ・キリノ大統領は、「北大西洋協定と似たようなかたちで、何らかのかたちで太平洋協定」を締結することを提案し、それは「極東諸国とアメリカ自らと、その双方にとって有益である」と述べました。
石破総裁の「アジア版NATO」構想から75年も前に、アジアで同様の提案をした指導者がいたのです。
それを希求する動きは、アイゼンハワー政権のダレス国務長官において加速します。他方、その帰結として結成されたSEATO(東南アジア条約機構)とCENTO(中央条約機構)は、加盟国間での信頼関係は得られず、実効的にその同盟は機能せず、最終的には挫折しました。それらの機構は地域に安定をもたらすことに成功せず、反対に摩擦や不安定性をもたらしベトナム戦争や中東戦争というかたちで悲劇に帰結します。
そもそも、後にSEATOやCENTOの実現へと動くダレス自らも1948年の時点では、「アジア版NATO」のようなものの成立の実現不可能性を、次のように悲観していました。
結局のところ、東南アジア諸国においても、中東諸国においても、明確に脅威認識を共有することも、その同盟が目指す価値を共有することも、相互に自国国民の兵士の生命を賭けて助け合うというような信頼関係も、なかったのだろうと思います。そのことが、これらの集団防衛体制(石破氏がしばしば「集団安全保障体制」と表現するもの)が持続せず、消滅したことの理由だろうと思います。
米国務省政策企画室長であったジョージ・F・ケナンは、1949年、そのような多国間の「太平洋協定」の困難と限界について、「防衛的な利益を共有する真の共同体(a real community of defense interest)」とはなっていない諸国の間で、このような地域協定を創ることは現実的ではなく、望ましくないと述べていました。
アメリカの過度な防衛負担を軽減することは不可欠
とはいえ、同時に、アジアで「集団防衛機構」を求める構想は、ハブ・アンド・スポークス型の安全保障機構における過度なアメリカの防衛責任を回避するため、あるいは軽減するために、長期的にはその構想が現実に浮上する可能性もあります。部分的にはいわゆる「格子状同盟構造('lattice-work' alliance structure)」にその趨勢が見られます。すなわち、「ハブ」であるはずのアメリカの圧倒的な軍事力、そして巨大な防衛上の責任や義務への反発が見られれば、より相互的、水平的な加盟国間の協力体制に移行することもあるでしょう。ただし、その場合も、「利他的」な、他者を防衛するための義務や責任が伴いますので、現在の「自国第一主義」やナショナリズム、ポピュリズムが広がる時代においては、その実現は容易ではないはずです。
それらに付け加えて、コンセンサス型の意思決定のなかで1ヵ国の反対で防衛上の措置がとれなくなる問題があります。スウェーデンやフィランドの加盟の際にトルコ政府がそれを阻止する姿勢を示したり、ウクライナ支援の際にハンガリー政府が批判したことにも、それが見られました。換言すれば、中国やロシアが、「アジア版NATO」加盟国の1ヵ国さえ軍事的および政治的圧力や経済的誘因でコントロールできれば、集団防衛措置を無効化できるという問題にも留意すべきです。だとすれば、「アジア版NATO」はむしろ、ASEANやEUでもしばしば見られるように、外部から中国やロシアのような大国が、加盟国に圧力をかけて一定の意思決定に反対するように誘導することで、「決められない組織」となりかねません。
他方で、加盟候補国間で相互の信頼が醸成し、自国の利益や安全よりもその「アジア版NATO」全体の利益や安全を優先するような利他的な精神が浸透して、そのような集団的な行動や、そこへの財政支出へと加盟各国の世論が同調し歓迎するような状況が広がるのであれば、長期的に「アジア版NATO」が実現することもありえます。
ただし、それを先導するべき大国であるアメリカにおいて、もしも第二次トランプ政権が成立すれば、NATOのみならず、「アジア版NATO」にも敵対的な姿勢を示すかもしれません。また、集団的自衛権の行使に大きな法的制約のある日本が、その結成の主導権を握ることは論理的に困難です。地域全体の安全保障よりも北朝鮮の脅威への対処が圧倒的に優先される韓国や、軍事能力や経済力の規模に大きな制約のあるオーストラリアが、アメリカや日本に代わってその結成に指導的な役割を担うことも容易ではないと推察します。
どのような安全保障秩序が望ましいのか
ですので、「ハブ・アンド・スポークス型」、「格子状同盟型」、「集団防衛型」、そしてそれらに加えて同盟構造が解体されて、古典的な「勢力均衡型」が復活するような複数のアジアの安全保障秩序の可能性を考慮し、今後それがどのようになっていくのか、そして日本にとって長期的な戦略としてどれが最も望ましいと考えるのか、冷静に歴史的視座から検討することが重要なのでしょう。
さて、ケナンが述べてから、75年が経過して、現代のアジアで「防衛的な利益を共有する真の共同体」が成立しているかどうかが、「アジア版NATO」が成功するかどうかを考える際の、鍵になると考えています。