「いい反抗期」「悪い反抗期」?
お疲れ様です、メタバースクリエイターズ若宮です。
先日、Voicyのトークテーマで「#反抗期の話」というお題が出ていて、「反抗期」について思考したことを書いてみます。
「反抗期」あった?
みなさんは反抗期はありましたか?
僕はというと、中高時代にばっちり反抗期がありました。中学時代がいちばん顕著でしたが、昭和生まれで青森の港町の出身なので、まあ周りもほぼ全員反抗期みたいな感じでした。
特に父親とはだいぶ仲が悪くバチバチでした。僕が朝が弱く機嫌も悪いのですが、学校に行かず起きてこないと父親が怒って部屋に駆け上がってきて、朝から殺し合いみたいな怒号が飛び交いました。腹いせに家の壁を殴るので壁には穴が増えます。
校則やルールを違反することも多かったので、親が学校に呼び出されることも多く、学校でも当時は先輩や先生方もけっこう暴力的だったので、まあ、いろいろありました。
「反抗期」を振り返ってみると、たしかに色々大人に迷惑をかけたけれども「自己意識の芽生え」の時期でもあったと思います。親の言うままに、とか大人が決めたルールをただ鵜呑みにするだけでなく、「いや違うんじゃない?」と疑問をもち、「自分はそうは思わない」という自己主張が出始めるわけです。
そういう意味では、反抗期があること自体は悪いことではありません。
「いい反抗期」は意志の芽生え
ちょっと変な言い方ですが、反抗期の中には「いい反抗期」っていうのもある気がしています。
言われた通りの行動だけをするのではなく、自我や自意識が芽生えてルールに縛られず自由な思考や行動を始める、そのきっかけとしての「反抗期」は明らかに成長の重要なプロセスです。
「反抗期」は何も中高生に限ったことでなく、大人にもあると思います。たとえば同じ会社にしばらく勤務していると、できることが増えてくるにつれ現状の組織や制度への不満も出てきます。
現状に疑問を持ち、変化を求める気持ちは、既存の社会への一種のレジスタンスとも言えます。ヘーゲル的弁証法ではないですが、そうした「反」のモーメントがあることで社会に新陳代謝が起こりより良くなっていく部分もあるので、反抗は必ずしも悪いことではありません。(社会に疑問を持ち、自ら変えていこうとする、という意味では起業家もある種のレジスタントだといえるかもしれません)
親にであれ、社会にであれ、現状や周りにただ流されているのは楽ですが、自らの意思で流れに抗うにはエネルギーが必要です。
そうしたエネルギーをもつ反抗は(それがただちに良い結果につながらなくても)「いい反抗」だと僕は思います。
中学生くらいの時には、現状や大人の言うことに納得いかず、かといってエネルギーを正しくぶつける先がなく、フラストレーションがたまり悶々とすることもあります。それでも、そこにはエネルギーがあるのですから、うまくそのぶつけ先をみつけることができれば、いずれさまざまな変化を起こす源泉になります。
「悪い反抗期」は後ろ向きな反動的反抗
親の意見やあるルールに対して、「それっておかしいんじゃないか」と自分なりの意見をもち反抗するならば良いのですが、とりあえず反抗するみたいな感じとか、周りも反抗しているからなんとなく反抗する、みたいな時期もあって、そういう場合は「悪い反抗」に近くなる気がします。
とはいっても、ここでいう「いい反抗」と「悪い反抗」を分けるのは結果がいいことにつながったかどうかではありません。結果や事象としてはどうにもならなかったとしてもエネルギーがあるかないか、というのが基準です。
僕自身にもそういう時期がありましたが、大人がいうことになんでもかんでも反発する、みたいな時期もあります。で、反発して何か自発的行動を起こすか、というとそうでもなく、単にいうことを聞かない、という。
学校をサボったりもそうですが何かやりたいことがあるからというわけではなく、「なんでいかなきゃいけねーんだよ、めんどくせえ」みたいなかんじで、じゃあ休んで何をするかというと友達の家でたむろしてプレステしてるだけだったりする。
経験上、大人が言うことや仕組みに対し何か変えたいとか特段意見もないけれどもとりあえず否定し、斜に構えるようになると、エネルギーはむしろ減っていきます。
「うざい」とかもそうですが、動的ではなく「反動的」なあり方で、それはただ反射として起こってるだけで主体が自分にない。そういう傾向がはびこると、中学くらいの時によくあるように、一生懸命頑張っている人たちに「あれはサムい」みたいに、冷めたポーズを取ることになります。
自分なりの理由で抗うのではなく、エネルギーがなくなって無気力になる、または「どうでもいい」と思うような態度をとる反抗期は、振り返ってみてもあまり良くないなと思います。
大人になってもツイッターなどで反動的なリプライを続ける人がいます。何にでも石を投げたり、冷笑するようなスタンスは、(優位に立ってる気がして楽ですが)実際に何かを変えようとする意志のあるデモとは違い、反動的に、ただただなんでも否定する「悪い反抗期」になってしまいかねません。
せっかくの反抗期は何かを変える力に
昭和の時代には、どちらかというと、男子の反抗期が多いイメージがあるかと思います。「男らしさ」がある種の粗暴さや破天荒さに結びつけられていたこともあり、ルール違反することがかっこいいとされる風潮もあり、不良の方がモテたし、僕の反抗期にもそういう感じのところもあったと思います。
素直に大人の言うことを聞くことが恥ずかしいとか、虚勢を張って反抗する、みたいな感じの反抗は、今から思うとあまり意味がない反抗でした。
「虎に翼」というNHKの朝ドラが話題になっています。うちでも、家族で見ているのですが、ドラマの中で男性が女性に対して粗暴に振る舞ったりするシーンがあります。
そんな中、男子学生が「俺が男らしさと思っていたものは、そもそも男に無縁のものだったかもしれない」というようなことを言うのですが、その感覚に近いです。
反抗期は必ずしも悪いことではなく、それが社会を変える原動力にもなりますし、自分らしさを見つけるきっかけにもなると思います。ただ、反動的な反発やポーズとしての反発、冷笑的な態度は、安い男らしさと似ていて、あまり意味がないなあと。
「反抗期」は大人にとってはたしかにめんどくさいものですが、若い時に有り余るエネルギーを社会に対して反抗することに迎えれば素晴らしいことだと思います。
反抗をただ押さえ込むのでなく、いい方向につなげていけたらいいなあとおもいますし、大人ももっと反抗期していけるといいなあと思っています。