「校則」を再考する 〜生徒が主語になっているか?自由度を増やしているか?
お疲れさまです。uni'que若宮です。
今日は「校則」について書きたいと思います。
「ブラック校則」が見直しに
都立高などで4月から校則の見直しがされたというニュースがありました。
以前から校則については、「ツーブロックだと事件に巻き込まれる」とか「高校生らしい服装でない」など恣意的かつ実効性がなく形骸化に陥っていることが議論になり、度々ネットなどでも話題になっていました。
個人的には、校則の中でも「地毛証明」や「下着の色の指定」についてはダイバーシティやセクハラ的観点からももはやデメリットしかないと思っているのですが、こうしたところにあらわれて根本問題として、「大人」が「子供」を管理する・しつける、という考え方があるように思います。
校則は誰のためのものか?
集団で過ごすためには一定のルールが必要です。集団では利害が背反するときもありますし、誰かの横暴によって善意の他者が被害を被ることがありますから、そうしたリスクを鑑みて予めルールを提示することで、抑止の効果もあるでしょう。
昭和期に学校が荒れていた頃には「校内暴力」も問題となり、本当に無法地帯みたいな学校もありましたから、学校内の混乱や暴力を抑えて「規律」や「風紀」を維持するため、校則が「法」として必要だったところもあります。
また「法」がある故に、生徒にとってはそれを破ることが一つの大人への反抗の身振りとして、パフォーマンスでもあった気がします。僕が中学校時代には男子の髪型は坊主という校則があり制服の形なども指定され、そのルールを破っているのが見つかると当たり前に体罰がありました。
体罰を受けるリスクを取って、オキシドールで髪色を抜いたり、角刈りにしたり剃りこみを入れたり、学ランの短さを競ったりズボンを変形させたり(おれワタリ何cmだぜとかw)、窓ガラス壊して回ったり盗んだバイクで走り出したりすることが思春期のアイデンティファイの儀礼でもあったわけです。
今でもそうした大人との相克はあると思いますが、授業がまともに出来なかったり教師と生徒の間でも暴力が日常茶飯事であった頃につくられた校則の中には、時代錯誤感が否めないものもあります。
まして、教育においても「正解がない時代」とか「自主性」「個性」をうたわれる中で全員一律のルールを課す、というあり方そのものが見直されていくべきでしょう。
またこちらの記事では、校則の厳しさが不登校につながるということにも触れられています。髪色などの問題も含め、あまりに強すぎる一律のルールは疎外やいじめを引き起こすことすらあります。
そもそも、校則は誰のためのものでしょうか?
(これは学校に限ったことではなく企業などでもそうですが)20世紀型のルールは組織の管理者のためのものという側面が強かったと思います。
しかし本来民主主義的なルールというのは、その成員が自分たちの生活を安全・快適に過ごすために集団として自主的に検討し、採択するものなはずです。
そうした観点から考えると、「校則」というものがまだまだ学校や教師のためにつくられ運用されている、というのがそもそもの問題なのかもしれません。
校則の見直しを生徒主語で
記事中には
とあります。「校則」の主語は「学校」になっているのです。
また、冒頭に引用した日経の記事中には
とあります。生徒との意見交換はされたようですが、今回も見直しも都教委からの指示によって学校が主語となり点検をしています。つまり基本的に「大人」が校則の必要性を判断し制定している、という構造は変わっていないように思えます。
しかし学校というのは「学ぶための場所」であり本来その主体は「生徒」なはず。ならばそのルールはもっと生徒が主語となって決められてもよいのではないでしょうか?
たとえば年に一度、総合的学習の時間に「校則の見直し」の時間をとる。そこでワークショップやグループディスカッションをして既存の校則の必要性や改定が必要ではないかを一つ一つ議論し、最終的に生徒の投票によって必要と認められたもののみを残していく。
ルールの見直しには背景を知る、ということも重要です。ルールにはそれが設けられた理由があるはず。そこをしっかり理解した上でなければルールの議論は深まりません。過去にこういう事例があって、とかこのルールの意図は…、という背景を教師側から説明し、あるいは生徒に考えてもらいます。
おそらく「ブラック校則」と言われるものの中には、ほとんど理由が説明できないようなものもあるでしょう。そうした誰も必要性が説明できない規則はやはり見直されるべきです。
はじめは既存のルールを引き算することから始め、ある程度慣れてきたら、新たなルールの策定も生徒たちが主体でできるようになるでしょう。
「自律」や「自ら考える力」を伸ばしたいと思うのであれば、「ルールを自分たちで考える経験」は何よりの学びの機会になるのではないでしょうか。現状の「学校が校則を決め、生徒には一律に守らせる」というやり方は二重にこどもたちの自律の力を育む機会を奪っている気がします。
また、新ルールは必ずしも多数での議論ではつくりづらいところもあるので、生徒会など代表者で立案するのもよいかもしれません。そうすると生徒会が校則の追加や変更について方針を打ち出すようになり、校則に関する具体的な公約を掲げて生徒会選挙が行われるようになれば学生が政治に興味を持つきっかけにもなる気がします。
ルールは自由度を減らすのではなく自由度を増やすために
校則のことを書きながら、ちょうど先日「ザッソウラジオ」というpodcastの番組でソニックガーデンの倉貫さん、楽天大学の仲山進也がくちょとお話ししたことを思い出しました。
放送中「ルール」や「マニュアル」の話になり、「マニュアルの逆説」について考えるきっかけになりました。
どういうことかというと、「マニュアル」というと「指示どおりにやりなさい」という個性というよりは画一化に向かう感じってありますよね。たとえば「マニュアル人間」というと融通が効かず機械のように面白みがない人を想像すると思います。
しかし、「マニュアル」ってもともと「手動」という意味です。たとえば車とかでいうと「オートマ」の対義語で、この比較でいうとマニュアルのほうが自由度が高いんですよね。わざわざマニュアル車の免許取る人ってどちらかというと「自分で運転するのにこだわって楽しむ人」という感じがする。
「マニュアル車」は自由度が高いはずなのに、「マニュアル人間」は機械的で自由度が低い。これはどういうことか、と。
そもそも「マニュアル」が生まれたのって、操作とか作業が複雑化してきた時に「手動」でやるのをサポートするためなはず。この時点では自由度は失われていないのです。家電とかもそうですが、「そのとおりに動かせ」ではなく「動かし方がわからなくて困った時に参照する」ような感じだと考えればそれほど窮屈ではない。それがいつの間にか「その通りにする」ものになってしまう。(これは管理側だけでなく、マニュアルに頼りっぱなしになるユーザー側にも問題がある気がしますが)
ザッソウラジオでは倉貫さんも「マニュアルって自由度を奪う悪者みたいに考えてたけどイメージが変わった」とおっしゃっていたのですが、マニュアルをその通りにやれという「自由度を減らす」ものと捉えるか、やり方がわからない時のサポートとして「自由度を増やす」ものと捉えるかでだいぶちがう気がします。
これと同じように、「校則」もまた「それがあるおかげで生徒たちの自由度や可能性が増えるだろうか?」という観点から捉え直すことができるのではないでしょうか?
「校則」の話は他人事ではありません。企業の「ルール」や「マニュアル」にも時代錯誤なものやもはやデメリットしかないものもたくさんある気がします。
そんなルールについては
という視点から都度見直し、未来に向けた可能性が増えるようにつくり直していきたいですね。