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あいちトリエンナーレの政治じゃなくてマネジメント的な問題

お疲れさまです。uni'que若宮です。

先日、衝撃のニュースがありました。

アートの力を信じる身としては、本当にショックというかなんというか…憤りを通り越して徒労感すら感じました。。


「表現」に対する介入という意味で政治的な観点から思うことも色々あるわけですが、この場は日経の媒体なので怒りをぶちまけたい気持ちはぐっとこらえて、ここでは政治や思想的な問題と言うよりはマネジメント(経営)的な観点から今回の件について思う所を書きたいと思います。


ブラック・マネージャー

今回の一連のできごとは、端的にいうと、マネージャーとして最悪だと思っています。

やっていることが、典型的な「責任逃れ」と「見せしめ」だからです。

名古屋市長がやっていることも基本的に一緒でした。

名古屋市長は実行委員会のメンバーであるにも関わらず、問題が起きると現場に「謝罪」を求めています。そもそも今回の件は、暴力による脅迫があり、犯罪的な行為があったわけで、それにより現場に甚大な精神的負担がかかりました。いわば現場は被害者です。

自らが意思決定に関わり決裁をしたのにも関わらず(それは組織として決定の責任を追う、ということのはずです)、問題が起こると被害者を糾弾し追い打ちをかけているわけです。


こういうマネージャーによって確実に組織の力は弱体化するのですが、皮肉なことに、このようなブラック・マネージャーは組織にのさばり、その利己的な権力の行使で組織をずたぼろにします。こういったマネージャーほど「正当化」がうまいため、利己的な行為であるにも関わらず、実は癌細胞であるブラックマネージャーのいうことを組織が信じてしまったりするからです。


「責任逃れ」という保身

企業のプロジェクトでもそうですが、あらゆる物事は想定通りに行きません。かならず不測の事態が起こります。問題は不測の事態にどう対応するかで、そんなときに「責任を取る」のがマネージャーの役割だと、僕は思います。

大企業時代の経験からもそうですが、「責任逃れ」をするマネージャーには共通の特徴があります。あとあと「聞いてない」というのもそれで、こういう上司ほど無能なものはありません。


問題が起こったとき、「聞いてなかった」「ちゃんと全部報告してなかったやつが悪い」というのは逆にいえば、「おれ悪くない」という主張であり、保身の主張にすぎませんが、もし判断のすべての責任が報告によるのだとしたら、上司は何をジャッジするのでしょう。誤った答えが出たらそれはインプットのせいだというなら、その上司に付加価値はありません。「聞いてない」ということは自分が付加価値のない無能だと吐露しているのに近いのです。インプット→アウトプットが直結されるのなら、マネージャーの役割は速やかにプログラムに置き換えるべきで、その方が私心なく客観的にやってくれてよっぽどいいはずです。

上司に必要なのは想像力であり、現場が思いつかないリスクを俯瞰的な視点から気付き、アドバイスすることです。現場とマネージャーの二重の網によってできるだけリスク対応のメッシュを細かくするわけです。

何でもかんでも報告させる、というのは想像力の欠如によるのですが、上司だけでなく、大企業ではセキュリティ部や法務部などの管理部門に起こりがちです。なにか決裁をするとき3ページくらいあるエクセルにチェックさせ、問題が起きるごとにチェック項目を足していきます。これは自分の責任を事前にヘッジする「アリバイ作り」にすぎず、このような事前チェックを増やすことでリスクへの対処力が増すことはまったくありません。チェックリストは形骸化し「とりあえず全部YESでチェックして出しとこう」とか「あそこに話してもダメって言われるだけだからだまっとこうぜ」とかなるだけで、むしろリスクへの対処力を下げます。


それとは逆に、新たな観点から付加価値のあるインプットやアドバイスをくれる上司や管理部門には事前に黙っていても相談が集まります。相談すると参考になるからです。ちゃんと付加価値があれば情報は集まってくるのです。ですから「聞いてない」という上司はその時点で、想像力がなく自分が付加価値を出せていないのだと反省すべきだと思います。


「見せしめ」という保身

そしてこういう上司がやりがちなことのもう一つが「見せしめ」です。これもまったく保身的な行動です。

「聞いてない」と現場のせいにして切り離した後、次に自分が困らないように、糾弾や梯子外しによって「見せしめ」を行うわけです。ひどい目にあう同僚をみて、他のメンバーは「こうはなりたくない」と上司のご機嫌を伺い、上司の意向通りのことしかしないYESマンになります。


ブラック・マネージャーは気に入らない問題が起こると、現場がいかに悪者かを周りに吹聴します。現場が悪者になればなるほど、自分が正当化されるからです。「見せしめ」は現場を仮想敵化することで、それ他のメンバーへの牽制と取り込みを行うのです。「ほんと今回の件はひどいよ。俺もこんなことはしたくないんだけど。」と上司は言います。他のメンバーの一部は「そうっすよね、あいつらひどいと俺も思います」と言います。このようにして組織の中を対立化させ、自分に都合のいい人だけで周りを固めていくのです。


ですが、思い出してください。決裁というのはその決定を「組織の責任として引き受ける」、ということです。現場を悪者にするのは本来、自分に向かってつばを吐いていることに他なりません。


異質さを内包できない組織は弱体化する

自分の意向に沿わないものを切り離す。そしてそれを悪者にすることで、同質性の高いものだけで組織を作っていく。今回のようなマネジメントは明らかに組織をモノカルチャー(単一文化)化し、弱体化させます。


ナチズムのような歴史の事例をみればあまりに明らかですが、モノカルチャー化はしなやかさを失わせ、暴走しやすい組織に変化させます。それはどんどん鋭く針を研いでいくようなもので、周りを傷つける危険なものとなり、しかし同時に折れやすいものとなります。

いまアート・シンキングの本を書いていますが、「異質なもの」が組織の身体化のためにこれからますます必要となってくると思っています。異質さは組織のレジリエンスを増し、エネルギーを増します。エネルギーは、可能性の積分値であり、いついかなる方向にも動けるしなやかな身体がエネルギーの高い身体です。さまざまな方向に広がりを持って動ける異質性を内包した組織はエネルギーが高く、特定の反応しか反射的な組織はエネルギーに乏しい弱い組織なのです。

「言論」や「表現」について政治的に思うことはありますが、それを抜きにしても、今回の一連の件は日本がいかにマネジメント的にやばい組織になっているかを露呈させました。組織はこういう上司は速やかにマネージャーを外すべきですし、こういう上司がいる会社からは速やかに転職したほうがいいと僕はアドバイスしています。


このまま日本は転職したほうがよい会社になっていくのでしょうか。


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