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自分がいない―(続)闇バイトの裏に流れている時代の文脈

闇バイトさせる人、闇バイトする人。凶悪犯罪の頻発に、SNSでの「闇バイト」アルバイト勧誘の見本を紹介しながら、「闇バイトにだまされないように、詐欺の加害者にならないように」との公的機関による投稿が続き、マスコミ等での報道がつづいているが、それが真の課題の解決だろうか?本当の課題の所在は、そこにあるのだろうか?


1 「自分」とはどういう意味?

闇バイトの増加に、なにがおこっているのか?その背景に流れる課題として、前回は「ソサエティとコミュニティ」の変化から考えたが、今回は個人、「自分」にフォーカスして、考えていきたい

まず「自分」とはどういう意味だろうか?
自分とは自らの分と書く
では「分」とはなにか?

分の語源は、「区分」されていること
与えられた役割、地位、能力、なすべき勤め
を意味する
 
自分とは、自分自身の能力、役割
本分とは、その人に本来そなわっていること
過分とは、自らに与えられた役割を
こえているということ
存分とは、自分の役割を知ること
分限・分際とは、自らの役割は
ここでおわり
ここまでというところ
 
分別のない人とは
分の区別のない人
 
この分の本来的意味が
忘れられつつある

分別がない人が増えつつある
 
自由の名のもとで
分を、つまり与えられた役割を
放置、放棄しつつある
 
分を弁(わきま)えない人が
増えている

定年退職しても、現役時代とおなじように
「いばって」いる人が多い
定年退職するということはゼロクリアすること 

いったんゼロにしたうえで
新たな自分の「分限」を得て
それを自分の「本分」にして
「存分」に発揮することが本来であった 

そして分限がわからない人が増えた
日本は無分別時代となった
 自らの分を認識せず、分を弁えない

2 ブランドを持ちたがる日本の若者たち

それは、高齢者だけではない
自ら稼いでいない高校生や大学生が
ブランド品を欧米に行って買い漁る
 
イタリアを旅していたとき
ブランドショップの前で
イタリア人にこういわれた

「日本人の若者はイタリアのブランドの服やカバンや時計を身につけてくれているが、地元のイタリアの若者の多くはイタリアのブランドを持っていない。イタリアの若者は自分でお金をためて買えるようになってはじめてブランドを買う。ブランドが似合うような年齢・人になってはじめて身につける」

note日経COMEMO(池永)「ボクは何者?ワタシは何者 ?― 自我レス時代 ①」


だから、「日本人はブランドが好きだから」
と思考停止してはいけない
 
分を弁えない
まさに分不相応
 
当然のことながら
自ら稼いでいない
高校生や大学生の経済力では
ブランドが買えないので
親や祖父母に買ってもらったり
なにかを犠牲にしたり
無理して買おうとする
 
そうまでして
ブランドを持って
「自分がない」自分を
ブランドで補強しようとするが
似合わない
ブランドに負ける

3 そこにいることへの不安

もうひとつある
大学を卒業したら、自分はどうなるのか?
大学を卒業した先に、よい就職がある
という未来が見えにくくなった
 
あれよあれよで
大学4年間がおわって
会社に入って
予定された人生を歩くはずだった
それがそうではなくなりつつある
 
ゴールと思っていた
人気有名企業に就職していいのか?
「予定」していた人生コースが見えなくなった

22歳で有名大学を卒業して
有名会社や役所に就職して、何歳で結婚して、何歳で子どもを産んで、何歳で係長になって、何歳になってマイホームを建てて、何歳で子どもを進学塾に通わせ、何歳で子どもを有名中学校に入れて、何歳で課長になって、何歳で定年退職して、何歳まで再就職して、あとは悠々自適で…そんなだれかがつくった約束された人生計画が描けなくなった。他人からすごいね、素敵だなと羨ましがられるような人生計画が分からなくなった

note日経COMEMO(池永)「ボクは何者?ワタシは何者 ?― 自我レス時代 ①」

誰かがつくったコース
決められたコース
約束されたコース
が見えなくなった

だから「自分」を主張する
アッピールする
だから社会全体が饒舌となり
エンターテインメント化して
ざわざわする

黙っていられない
黙っていたら
置いてけぼりになるのでは
と不安になる
 
自分が何者か
なんのためにここにいるのか
なにができるのか
自分は愛されているのか

 という基盤が揺らぎ
「そこにいる」ことへの不安が強まる


4 取り残されることへの不安が「自我レス」の中核

それは、なぜか?
自我がなくなったから

「思想史」という学問がある。
学問の学説史や文学史、芸術史、経済史といった個別の思想の歴史を縦軸とするならば、それらを横断して全体的な思想の様式・構造などを時代単位に捉える横軸の歴史である
思想史的に捉えると、江戸の思想史、明治の思想史、昭和初期の思想史、戦後の思想史、平成の思想史がある。令和に入った2年目にコロナ禍となり、平成時代とはちがった令和時代の思想となった。令和はどんな時代の思想史となるだろうか?

note日経COMEMO(池永)「ボクは何者?ワタシは何者 ?― 自我レス時代 ①」

令和時代の思想史の
最大のモチーフは自我ではないか
「私は何者なのか?」が語る時代
 
自我とはなにか?
他ではない
これが自分自身というのが「自我」
 
哲学的に聴こえるかもしれないが
令和時代の思想の中核は、「自我」と「他」の関係である

他との関係性をつくるうえで 
自我=自分が何者であるのか
自分はどうあるべきか
 
を持っていないといけないが
それがない人が多い
社会全体がそうなっている
 
だから常に
なにかを
アッピールしたり
パフォーマンスしたり
語りつづけようとする
 
黙っていると
社会のなかで自分は
認識されなくなり
必要とされなくなるのではないか
 
そんな不安が「自我レス」の中核
 
自我レスが背景となり
過度な自己主張や自意識過剰となる

 
これはだめ、あれはだめ
ボク・ワタシのいる場所はここではない
と不平不満をいう

では、なんならいいの?
では、どこならいいの?と訊ねても
答えられない
だめなことはいくらでも言えるが
 
どうしたらいいの?の問いに
ボク・ワタシには分からない
 
膨張している夢や自意識は
欲求レベルであって
自我ではない
 
「こうしたい、ああなりたい」は
女子中学生が
女性アイドルグループのセンターになりたい
というのは夢であって
それは、自我とはいわない
 
“私は〇〇になれる”
と思い込むことが自意識
そうなるため
すべてを捨てて、それに集中するということは
自意識であって
自我ではない
 
現代社会に蔓延しているのは
「他ではない、これが自分自身ということがない」
自我レスである
 
自我がない人が
誰かがつくったコースを
決められたとおりに歩いてきた
約束されたコースの多くが
なくなった
 
どうしたらいいのか?

「自我」を取り戻すことが
令和時代のモチーフではないか
それは、闇バイトで取り戻されるものではないだろう



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