「現実」「客観的な真実」という概念の不確かさ
最近、何らかの創作物には、その作者が「世界をどのように認知しているか」がそのまま反映されるのだなぁ、と改めて感じています。
例えば「大企業」という概念に対して思い描くイメージも、人によっては「利権にまみれた巨悪」というように映り、また別の人にとっては「親近感を感じるあたたかい仲間たちの集合体」であったりします。
また日本人は「ロボット」にどちらかといえば仲間としての親近感を感じるのですが、西洋の人はもっと恐ろしい、人間の存在を脅かすものだと感じるようです。
これはもうその人の人生経験に基づく価値観・宗教観の違いのようなもので、どちらが正しいとかではないのだなと。
そして、時にそれがぶつかりあうと宗教戦争のように論争・炎上が起こる。インターネットの時代、よく見かける現象です。
かといって我々は一人ひとり人生の過ごし方や生育環境も違うので、他者の世界の認知の仕方をそっくりそのまま理解することは難しいことも実感しています(頑張って理解しようとしても、やはり自分と価値観の違う他人の精神構造や思考回路を完全にトレースすることはできないので、なんでそう感じるのか?と考え続けるストレスにより摩耗する)。
そんな諦念を感じている時、ある記事を発見して深く納得しました。
我々が認識している現実は脳が描いた虚像である。過去の経験や知識で判断するでっちあげの世界(ドイツ研究)
「我々が現実であると解釈しているものは、実際には心によるでっち上げ、あるいは幻想にすぎないということになる」
「過去の経験や得た知識に応じて現実世界は判断される」
衝撃的な研究ですが、なんだか妙に納得しないでしょうか。「現実はひとつであり、揺るがないものである」と考えると「どちらが真実か、どちらが正しいか」という話になるのですが
そもそも「自分たちがそれぞれ認識している世界はすべて虚像である」と考えた方が、考え方のまったく違う他者と寛容に付き合えるような気がします。
量子論とかパラレルワールドとかの話も大好物なのですが、最近他者との様々な認知の違いのコンフリクトにストレスを感じることが多かったので
「虚像だから仕方がないのだ」と開き直ってみることにします。
ちょっとなんだか良くわからない話なのですが、個人的にアハ体験だったので書き残しました。