歴史嫌いだった僕がコテンラジオと『歴史思考』に出会って考えた、パースペクティブの解放と人文知の可能性
お疲れさまです。uni'que若宮です。
突然ですが、僕は「歴史」がだいっきらいでした(笑)。実に45年間、なんらの興味をもてず冷めた目でみてきた僕が『歴史思考』なんていうタイトルの本をわざわざ予約してまで読むようになるとは…
『歴史思考』のメタ認知
コテンラジオの深井龍之介さんの『世界史を俯瞰して、思い込みから自分を解放する歴史思考』を拝読しました。
チンギス・ハン、イエス・キリスト、孔子、マハトマ・ガンディー、カーネル・サンダース、アン・サリヴァン、武則天、アリストテレス、ゴータマ・シッタールダなど歴史上の偉人を紹介していますが、いわゆる「〇〇年に生まれて△△という実績を挙げた人で」、という「知識」や「教養」の本ではありません。
いや、もちろんそういう情報も得られるのですが、それぞれの人とその人を巡る歴史をなぞりつつも、「思い込み」が相対化されるある種のモードを追体験する本という感じ。
この本で何度も語られるのは「メタ認知」という言葉。といっても、一般的に使われるような
メタ認知は「客観的な自己」「もうひとりの自分」などと形容されるように、現在進行中の自分の思考や行動そのものを対象化して認識することにより、自分自身の認知行動を把握することができる能力である。(wikipediaより)
という自己認知的な「メタ認知」とは少しちがう「もう少し大きなメタ認知」のことを言っている気がします。
たとえば、いつの世も変わらないように思える善悪や倫理も絶対的なものではありません。歴史を大きな目で俯瞰することで、道徳や正義も時代や地域など環境に応じて変わる関数なのだ、ということがわかります。
また、成功か失敗か、というのも大きな視点でみると変わってきます。書籍中で紹介されている武則天の例にみるように、短期的にはあまりよくないことが後々には国のために有効な制度として機能したり、しかしさらに先の未来ではそれがかえって足を引っ張ることになったり、とても相対的なものです。
僕たちは日々の成功や失敗に思い悩むこともありますが、それは短期的かつ限定的な視点から評価しているからで、たしかにこうした大きな価値観からみると大したことではない気がしてきます。
どうしても卑下したいなら、少なくとも1000年くらい様子を見てからにしましょう。
と深井さんは書いています。1000年て(笑)!!!
歴史を生と接続する
大きな視点からの「メタ認知」ということでいえば、個人的には『歴史思考』やコテンラジオがすごいと思うところは、これがただの客観俯瞰ではなく、ちゃんと生に接続されているところだと思っています。
それはたとえていうなら、Google Earthのシームレスなズームイン/ズームアウトの感覚に似ているような気がします。一般的な世界地図や地球儀ではどこにどんな国があるかその位置関係はつかめても、そこでの生活や風土の具体とつながる感覚はうすいですが、コテンラジオにはずわっとその一部に入っていったりずわっと上空にあがったりできるシームレスさがあります。
あくまで僕の感覚ですが、一般的な「歴史」教育のほとんどはそうなっていなくて、抽象的な地図のような無味乾燥なものになっている気がします。僕は「歴史」に本当に苦手意識があり、45年間まったく興味が持てませんでした。なぜかというとリアルな「生」の感じがしないからなんですよね…
これは歴史にかぎらずアートでもそうで、教え方がもったいないのがあると思うのですが、「知識」として学ぶことでどこか温度のない記号になってしまって、それが自分に接続されてこないんですよね。
もしくは逆にふれて、いわゆる「オトコノコ」的な勧善懲悪やサクセスのストーリーに仕立てられてしまうか。僕はそういうのも冷めてしまうんですが、『歴史思考』やコテンラジオはそのどちらでもないのがよいなあと。
歴史上の偉人だってけっして自分たちとはちがう聖人君子ではなく、ひとりの人間として生き、あるいは歴史に翻弄されながら逡巡したり失敗したりしている。その生を単純化した二元論や価値観に回収せずに、複雑なままに体験しようとするのが「歴史思考」な気がします。
で、なんでこれが大事かというと、この接続がないと歴史ってただの無機質なものになってしまうんですよね。一般論や抽象論になってしまう。
俯瞰してメタ認知したとしても、大きいことや遠いものって「疎遠」に思えてしまいがちなので、下手すると「歴史にとって自分は関係ないもの」という感覚になってしまう。遠い国のどこかで戦争が起こっていても、今じぶんが見ている世界とは別のことにしか感じられないみたいに。
でもほんとうはつながっていて、歴史の一部として自ら歴史を生きてもいる。このつながりのシームレスな感覚をちゃんと持つことが大事で、そうすると歴史は生きたものになるんだなと、コテンラジオ以降は思えるようになりましたw。
歴史という大きなものはいま自分に見える世界を相対化するのに役立ちます。しかし一方では、大きいために疎遠なものに思えてしまう罠もある。そこに結び目をつくることができてはじめて「メタ認知」や「相対化」が可能なのではと思います。
「メタ」「俯瞰」といってもただ外側からみるのでではなくて、個の存在として歴史とつながった感覚をもちながら行き来することが重要なのではないでしょうか。
パースペクティブの相対化
歴史を「知識として」知っているだけでは、視点の移動は起こりません。歴史上の人物を「生きた存在」として生きながらシームレスにperspectiveを移動させ、それによってその呪縛を相対化し、解放されることが歴史思考だと感じました。
「perspective」とは「見方」「視点」や「価値観」という意味ですが、「将来の展望」という意味もあり、これからの行動も規定しています。
また、perspectiveには「遠近法」という意味もあります。「あなたの視点からいま見えている景色」という意味ですね。
(今の)あなたの価値観やそれを構成する社会の枠組み、そしてそれをもとにした将来の見通し、それがパースペクティブなのですが、人はしばしばあまりにこれに囚われ、自明・所与のものとしてそれに規定されてしまいます。
書中で男女の性の捉え方について書かれているように、今「当たり前」と思われる判断も実はほんの100年ほどの価値観でしかないということが歴史を俯瞰すると本当によくあります。要は一つのperspectiveでしかないわけです。
科学的な事実ですらそうです。「いや科学は変わらない「真理」だ!」と思うかもしれませんが、天動説が真理だったことだってありますし、学説も仮説と発見によって常にアップデートされていきます。(なので僕は科学とかもそれが唯一の不変・普遍の真理だとは思っていなくて、あくまで「暫定一位」でしかないと考えています)
しかし、人は常に「自分から見えている景色」の中にいるため、それが唯一の世界だと思ってしまいがちです。かつそれに乗っ取って「将来の展望perspective」までしてしまい、それに合わせて自分を規定し苦しくなってしまう。
『歴史思考』のタイトルには「 世界史を俯瞰して、思い込みから自分を解放する」とありますが、歴史によるズームイン/アウトによってperspectiveへの囚われに気づき脱することができるわけです。
ところで『歴史思考』を読んで面白いなーとおもったことがもう一つあって、それはアート思考との対比です。
実は僕は「アート思考」の本を書いていまして、そのタイトルは『ハウ・トゥ アート・シンキング 閉塞感を打ち破る自分起点の思考法』といいます。この、「閉塞感を打ち破る」というのはまさにこうしたパースペクティブへの囚われの解放のことで、歴史思考の「思い込みから自分を解放する」とすごく近い気がしたのですね。
ただ面白いのは、そのアプローチが一見真逆のようにも思えることです。
「歴史思考」が「世界史を俯瞰」と遠くの目をもつのに対し、アート思考は「自分起点」。偏愛や身体など、自分を深く掘っていくことで思い込みや囚われから脱していく。
日常風景のperspectiveに対し、歴史思考が上空に上がっていく巨視的な「メタ認知」でその囚われを脱するのだとすると、アート思考は原子の中を見ていくような微視的な感じがします。芸術家というのは、僕らが囚われ看過している日常の遠近法よりもより深く世界を捉え、ありふれた風景をも変えてしまうのです。これは一見真逆のように思えますが、マクロな理論である宇宙物理学とミクロな理論である量子力学がつながっているように、近いところがあるのかもしれません。
歳を取ることはperspectiveの豊かさを増やすこと
最後にもう一つ、ちょっと本筋とはちがうのですが、僕がとても共感した言葉を引用します。
人は歳を取るほどしょぼくれていくように思われがちですが、実際は逆にどんどん可能性が広がり、加速していく
これ、すごい感覚としてわかるんですよね。
よく「若い人は可能性に溢れている」と言われますし、「おじさん」はオワコンみたいに言われることもありますが、自分の人生を振り返るとむしろ歳をとるって可能性が減ることじゃなくてむしろ増えることなんじゃないか、と思っているんです。
ピカソは
子供は誰でも芸術家だ。問題は大人になっても芸術家でいられるかどうかだ
という言葉を残していますが、これも「子供>大人」と短絡的に捉えるのはちがうと思っていて(もしそうなら赤ちゃんが最高の芸術家なはずですw)、むしろ人は経験や学びによる視点の移動によっていろんなperspectiveを身につけることができ、その世界や可能性は豊かになっていくはずだと思うのです。
過去の出来事それ自体は変えることはできませんが、perspectiveが増えることでシナプスが増えるように、過去の経験の価値や意味の組み合わせの可能性は遡及的に増えるんです。だから「実際は逆にどんどん可能性が広がり、加速していく」、そんな実感があります。
ただ、そうなれるには一つ条件があって、それは「ひとつのperspectiveに固着しない」ことだと思うのです。視点を移動させずにいるとperspectiveは固定化し、経路依存によってどんどんそれに囚われていきます。このようにあるとき、人は歳とともにしょぼくれたり頑迷化し、芸術家でなくなってしまうのではないでしょうか。
逆にいえば、perspectiveの囚われを脱することができる限り、僕たちは可能性をどんどん増やすことができるはずです。
そして同じように考えるなら、「歴史」もまた、歳とともに可能性を増やしていくことができると言えるのかもしれません。いま、色んな「歴史的なこと」がおこっていて、自分ひとりの存在でできることなどなさそうに無力感も覚えますが、それはつながっているからこそ、逆に言えば変えられない可能性は低い。
かつてヴァルター・ベンヤミンは、未来に背を向け瓦礫の積み重ねを見つめながら、時代の強風によって未来と吹き飛ばされ続けている「歴史の天使」について書きました。しかし歴史とは過去を向いたものではなく、(それが僕たちの存在が「歴史」とつながっている以上)可能性とつながりを増やすことでもあるのではないでしょうか。
いま、歴史だけでなく、アートや哲学、宗教学含めた人文知が注目されているのもこうした「perspectiveの解放」が求められているからかもしれません。
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