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日本の(余計な)教育費って高くないですか?それが子どもにとってプレッシャーになっていませんか?

ぼくはミラノ生まれの子どもをミラノで育ててきたので、日本の現在の学校教育について語る資格はないと思っています。正確に言えば、少しは話せることはあるけど、口を閉じておいた方が無難との判断をどうしてもしてしまいます。十分に知らないことに余計な口を出すな、と。

その一方、日本の教育を見直す論議が散々され、いろいろと改革されてきているにも関わらず、若い子たちをみていると良い子が多いけれど、欧州の同世代と比べると(悪い意味で)子供っぽいとの印象を受けます。これは30年間、一貫して同じです。

最近、たまたま以下の2つの記事を読みました。一つは塾代がとても高いとの記事です。もう一つは義務教育においてデジタル機器が有効に使われていないとの記事です。しかも、後者の記事に国立情報研究所の新井紀子さんが、実態の把握と政策が噛み合っていないのが問題と指摘しています。デジタル機器が必要なのは高校生だが、そこには行政の目が届いていない、と(↓の引用部分)。

ほう、こんなところにネタがあったか。たまには教育について書いてみようかと気が変わりました。

OECD調べの「毎日かほぼ毎日コンピューターで宿題をする割合」が著しく低いのは15歳、つまり高校1年生だ。しかし、経産省はそれを根拠として小中の一人一台パソコンに突き進んだ。小学3年生まではローマ字入力もままならないにも関わらず、だ。一方、高校の普通教室のプロジェクターやネット環境整備には無関心だ
OECD調査結果を改善したいなら、高校生に一人一台を配布し、PDF形式で宿題をクラウド上に提出させれば、GIGAスクール予算の1/10以下で済む。経済界もむしろ「そのような人材育成」を望んでいたのではないか。
実態や状況を踏まえず、論理的整合性にも欠けた施策が、現場からそっぽを向かれた格好だ

さっさと結論を先に申し上げます。日本の教育費、こんなに高くていいの?と思っています。整合性のない教育行政のつけを、親が払っているのじゃないの?と思っています。それも一時的な肩代わりではなく、かなり長期にわたって、その状況を親が受け入れることを当たり前だと思っているように見えます。仕方ない、と思うにしても、案外、この道に希望があると同時に考えている節があります。

「現存の教育システムではだめだ、オルタネイティブ教育だ!」と走り回るのも結構です。が、それらもそれなりに高価で、親はどんどんと財布だけでなく精神的にも追いつめられるわけですよね。

あげくのはては、「これだけ投資したのだから、優秀な子どもになってくれないと困る」と子どもに(暗に)プレッシャーをかけていくのが目に見えています。もちろん、親はそんなつもりはないでしょう。だが、子どもは感じるのですね、その圧力を。

他方、メディアで語られる教育の成功モデルが海外大学にむかっています。特に米国東海岸の有名大学に入学させるという、これまた、これまでの国内偏差値教育の枠組みから一見脱皮したようでいて、スペック志向に嵌り切っているのが見え隠れするのです(一部の私立中・高校のビジネス戦略にのせられていない?と思わないでもないです)。

英語もプログラムスキルも身に着けられるようにやればいいです。どんどんやれることはやればいい。だが、もっと肝心なのは、散々言われながら、ちっとも前進しているようにはみえない次のことだと思います。日本の若い良い子に多く出会いますが、欧州の同世代に比べると子供っぽいとの冒頭の印象は、下記の不足感からくるのです。

今ある状況の見立てとその解釈をひとりでやり抜き、自ら納得した内容を他人に説得性をもって口頭で説明できること(同様に、他人の説明を理解して判断できること)。そして、説明した相手から敵意をもたれるのではなく、好感をもたれること(あるいは好意をもたれるにどうすれば良いか、を知恵として身につけていること)。

ほぼ、これに尽きるのではないかと思います。知識は見立てと解釈として必要だし、口頭で説明できるスキルも必要です。そのための学校の勉強です。筆記でのコミュニケーションも必要ですが、これは口頭の優先順位の方が高いはずです。日常世界の多くは筆記ではなく、口頭です。口頭で伝えられず、筆記だけで通じるとするスタイルにはコミュニケーション上の無理があります(紛争の最終的解決は口頭で図られるケースが多い理由を考えてみてください)。

以上が日本語でできれば、外国語でも同様の会話が交わせるようになるモデルがイメージできるでしょう。幼児早期教育で外国語と母国語の優先順位を議論する前に、言語で何をコミュニケーションするかの認識が先です。

この点が不足しながら、「日本って、大丈夫なんだろうか。国際的には孤立しつつあるし、存在感を十分に示しているとは思えないし、だいたい人材が不足していない?」と、この30年間、決まり文句のような会話を交わしているのです。上記の記事にあるように、余計なお金をこれだけ払っていながら、です。

「あれっ、おかしいな」と思うのが真っ当でしょう。これだけお金だ、お金だと話題の中心に据えながら、お金を余計にかけたからプラスの結果が導かれるのではなく、お金をかけたにも関わらず、どうもイマイチの結果しか得られていないこと自体に、教育議論の不毛さが隠れていると思います。

根底には、大量生産工場の品質改善方法が教育議論のなかに染みついているような気がしてたまらない・・・。

写真©Ken Anzai

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