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オリンピックとサンクチュアリをきっかけに考えた「練習」と「稽古」

お疲れ様です。メタバースクリエイターズ若宮です。

今日はちょっと、「練習」と「稽古」ということについて書いてみます。


オリンピックで改めて不思議に思った、スポーツの様式美やルールの独自進化

パリオリンピックが終了しましたね。

…といっても、僕はほとんどオリンピックを見ていないっす…。もともとそれほどオリンピックに興味が薄いのもありますが、忙しかったのもありSNSやニュースで少し目にした程度で、終幕したことすら2日くらい後に気づいたくらいです。

そんなオリンピックをチラ見しかしてない僕なんですが、オリンピック競技の報道を見ていて、改めてスポーツってすごい面白いなあと思いました。オリンピックというのは、色々なスポーツの頂点が集まる人類の祭典です。それってエクストリームな人たちの集まりでもあるわけで、改めて客観的にみるとスポーツってめちゃくちゃ不思議です。

ルールとか技とかも、改めて俯瞰してみると謎なルールもめっちゃありますよね。バレーボールなんかも、片方がシャカリキにボールをコートに落とそうとし、もう一方は3回で返さなきゃいけないとか、ローテーションとか、2回触っちゃダメとか、いろいろなルールがあります。サッカーなんかはボール競技なのに手を使っちゃダメとか、そういうルールってゲームをしながら徐々に進化してきたのだと思うのですが、改めて考えるとどうしてそうなった?というものも多いです。


ルールも技もある種の合理性を追求した結果だと思うのですが、すごく部分最適的に独自進化してきた感じがあって、これ異星人が地球にやってきて、地球人が熱心にオリンピックを見ているの見たら、「人類の祭典って…地球人ってなんでこんな謎なことを競って盛り上がってるん…?」ってなる気がします。

練習か稽古か

サッカーやバレーなど得点で勝ち負けが決まるものはわかりやすいですが、オリンピックにはアーティスティック・スイミングとか体操のように「技の完成度」や「芸術性」みたいなのを競う競技もあります。とりわけそういう競技では、技やフォームなど「独自の様式美」が発展していて興味深いです。

で、世界中でしのぎを削りながら、ものすごいトップオブトップの選手たちが、各スポーツならではの変わった実演をより上手くすることを競って、血のにじむような「練習」を重ねて集まってきているわけですよね。

「独自の様式美」といえば、ちょうど遅ればせながら「サンクチュアリ」というNetflixのドラマを観ました。これは大相撲という、これまた日本の独自の世界を描いたドラマですが、相撲の世界も色々ものすごく意味不明に突き詰められた様式美がある。四股とか塩とか行司の呼び込みとか、改めてみるとどうしてそうなった…?というのも沢山あります。


ところで相撲の場合、「練習」ではなく「稽古」といいますよね。相撲もオリンピックと同じくスポーツであり競技でもあるわけですが、相撲くらい「様式美」が重んじられるものでは「稽古」の方がしっくりくるなーとサンクチュアリをみながら改めて思い、「練習」と「稽古」のちがいが気になったわけです。


「稽古」って、よく考えるとすごく不思議な言葉じゃないですか?

相撲や柔道、空手などの格闘技から、演劇や能のような踊り、さらにはお茶やお花まで、本当に多岐にわたる活動において「練習」のような意味で使われます。しかし「練習」と言っても「稽古」とは言わないものもあります。ボクシングは稽古と言わないでしょうし、チアやダンスも言わないでしょうし、合唱とかも言わない気がします。

格闘技から接客やフラワーマネジメントまで、同じ「稽古」という概念で言えるという、ここに共通する質ってなんだろう。

またちょっと時間ができたら「稽古」についてはもっと深く調べたり考えたりしたいなと思うのですが、ざっと「練習」と「稽古」の違いを考えると、こんな感じかなと。

まず、「練習」の方は人と競うことを目的としてされるものという感じがしますが、一方、稽古は自分の技を磨くことが目的という感じがします。

もちろん、陸上競技のような個人競技では自分の記録を伸ばしていくことを目指して自分を高めていく部分はありますが、最終的には「競う」方が目的としては強いかなと。


一方、「稽古」の方は勝ち負けのではなく「道」という感じです。「柔道」と「華道」、格闘技でもお花にも「道」という共通点がある。

また、稽古には「人に見られる」という要素もあるような気がします。演劇とか踊りの「稽古」が典型ですね。また、「見られる」という契機があるにしても、他人の視線を気にする承認欲求ではなく、自分の美学を究めて、観客を「魅せる」という主体性がある気がします。


オリンピックも「稽古」的になっていく?

オリンピックは基本的に「競技」なので、現状は「練習」的な要素が強いでしょう。オリンピック競技の中で「稽古」といえる競技ってあんまりありません。

ほぼ唯一くらいのものが柔道かもしれませんが、柔道でも日々の鍛錬は「稽古」と言っても、競技大会を目指すためには「練習」する、というのではないでしょうか。


オリンピックの競技の中でも、最近では「スケートボード」や「ブレイキング」などもあります。これらは技を究めて「魅せる」という意味で、少し稽古っぽい感じがします。

その象徴のように、前回のオリンピックのスケートボード競技決勝ではライバルが失敗しても皆で応援し合う姿が見られ、印象に残りました。誰が勝者となって金メダルを取るかよりも、良い演技をすることに皆が向かっているような雰囲気があるかもしれません。

東京五輪・パラリンピックがとりあえず無事に終わりました。「あの大会はいったい何だったのだろう」と考え続けています。
新型コロナ感染症が拡大する中での強行開催に私は反対でした。ただ、東京大会が掲げた多様性と共生を実感するとても象徴的な場面があった。四十住さくら選手と開心那選手が金・銀のメダルを獲得した女子スケートボードのパーク種目です。優勝候補だった岡本碧優選手は挑戦した難しい技に失敗してメダルを逃したのですが、海外の選手たちが駆け寄り、笑顔で彼女を担ぎ上げたのです。
ハッとしました。失敗を恐れず理想の技にチャレンジした仲間の勇気をたたえ、慰め支え合う。10代の選手たちのその姿はとても自然で、国を背負って戦うといった悲壮感がまるで感じられなかった。競い合うけど争わない。五輪とは何かという原点を改めて考えさせられた場面でした。

僕はがあんまりオリンピックに興味が持てないのも、なんとなく戦争のメタファーとして「国の威信をかけた勝負」みたいになっているのがどうもな…というところもあります。

そもそも「スポーツ」というのは心身の健康や楽しさのためにしたらいいと思うんですが、勝ち負けがメインになって体を壊すほどやるもの本末転倒な気がしますし、他国だと負けたチームの選手が殺されたりして…。

メダル獲得を楽しみにしている方々や勝つために全力を尽くす選手を否定するつもりはありません。しかし今回オリンピックでもありましたが、選手への誹謗中傷とかスポーツによって敵対心が強くなりすぎて争うのってちょっともう食傷気味で…


個人的には、「勝ち負け」よりもアートとかの方が好きなので、「練習」的なものより「稽古」的なものの方に興味があるというのもあります。

ただ時代的にも戦うというフォーマットがちょっと古くなってきている気もしていて、スケボーのように順位を競うよりみんなで良いプレイしよう!っていう方が合っている気もします。

競い合う、というよりお互い技を磨き合う、オリンピックがみんなの稽古の集大成の発表の場のようになっていくのも、新しい形かもしれません。


起業や仕事も「稽古」かもしれない

ところで、「稽古」ってそもそもどういう意味なのでしょう。

語源を調べてみると、「稽古」は「古を稽える」という意味なのだそう。で、「稽える」というのは

https://trilltrill.jp/articles/2179860

稽えるの「稽」は、「比べ考える。考え調べる」といった意味に。 そのため、「実情を調べただす。吟味する」「学ぶ。学習する」といった意味が適切です。 勘えるの「勘」は、「考える。つき合わせて調べる」「罪を問いただす」といった意味に。 そのため、「糺明して罪する。勘当する」といった意味が適切です。 最後に、考えるの「考」は、「調べる。こころみる」といった意味に。 そのため、「思考をめぐらす。あれこれと思量し、ことを明らかにする。思案する」といった意味が適切です。


という意味なので、古くからの伝統や先人の知恵を吟味し、自分なりに考えながら進んでいくという意味があるんですね。これは競技というよりは「研究」や「研鑽」に近い感じがします。しかも「考」との違いでいうと、単なる抽象的な思考ではなく、もっと身体的な学びでしょう。

そう考えると、「稽古」の目的は究極的に「勝ち負け」を超えたところにあるのではないでしょうか。相手に勝つことよりも、自分の経験を通じて「古を考える」ことができているか、身体的に体得し自分の中で腹落ちする、そういう自らを磨いていくプロセスなのかもしれません。


僕は起業家として仕事をしていますが、仕事も「稽古」だと思ってやれたらいいのかも、と最近思っていたりします。新規事業や起業はうまくいかないことも多いですが、稽古だと捉えれば目先の競合や売上にとらわれすぎずに、長期的な視点で学びを得ることを楽しめそうな気がします。

「練習」と「稽古」についてはまたいつか詳しく考えてみたいと思います。

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