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親の死に直面したとき、父の娘・3人の子の母親を両立するのが難しかった備忘録

今年の6月、かねてから癌の闘病中だった父が亡くなりました。2016年12月にステージ4の胃癌が発覚してから、手術後肝転移で余命半年といわれながらの4.5年、宣告より9倍も長く時間をくれました。

このtwitter(はじめて聞いた父の恋バナだったためより強く感じる突拍子のなさ)の他にも、
事業を始めるときに資金の相談をしたら「金借りちゃえよ!」と勧めてきた父、
大学時代二人でLAに行ったとき大喧嘩をし「ずっと生意気だと思ってた」とチャイナタウンで言い放ったり、エピソードがのほぼが破天荒な父です。

6月、父の誕生日当日に、次回入院したら退院はないと言われていた緩和ケア的入院をし、約2週間後亡くなりました(6月は私の誕生日もあったので、40歳の誕生日を越えてからにしてくれたのかなーなんて思ったり。破天荒なのに)。

この投稿は私のエモ日記としてではなく、「この立場でこんなこと思ったよ」と、このタイミングでしか公開することができなそうなので書き記すものです。3ヶ月、投稿するまでに時間が空いてしまったのは、その間関わる2つの会社の決算があり、クソ忙しく投稿としてまとめる時間がなかったからです。投稿するまでに心の準備がとかいうことではないので、優しい友人達、心配しないでね…。誰もが遅かれ早かれ迎える「親の死」をこれから迎える誰かのヒントになれば幸いです。

3人の子どもの母であるが、父の娘でもある。

4年もの準備期間をもらったようなものなので、はっきりいって心残りはない。一緒にハワイに3回も行ったし、聞いておきたいことはすべて聞いた、と思う。

よく人に笑い話として話すのだが、父は死に対しての反応が少し普通の人と違っていた。手術後抗がん剤治療をはじめたころ、思うような結果が出ず家族のグループLINEに、

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というのを送るような感じ。
そんなこと言われたらやらざるを得ないと、父の実家を建て直して、集合住宅にするという、かなりたくさんの人を巻き込んだ大掛かりなプロジェクトを始動した。私が3人目を出産したり、コロナが来たりもしたが、まる3年かけ、プロジェクトもこの7月で完了した。

本当に、すべてやれたと思う。

最後の入院で父に付き添いながら、先生に「お兄さんにも仕事が終わったら早くきてもらった方がいい」といわれて兄を待っているときに、流石に仕事をする気にはなれず、私は子どもたちが式で着る服を一気にカートに入れて決済していた。このとき、自分の冷静さすごいなと思うくらいだったが、実際に亡くなったあと、式でのお別れが一筋縄でいかなかった。

8歳娘・6歳2歳息子が、死をどう受け止めるかに「3人の母」として寄り添うことと、「父の娘」として別れに集中することが、両立できず崩れ落ちることになったのは完全に想定外だった。

「火葬場で骨を見るのは刺激が強すぎるので、そこには同席させないようにしよう」というのだけは決めて。しかし、子どもたちが身近な死を受け止めることにそれぞれだったこと。娘と息子たちの死への理解のステイタスが違いすぎたこと。彼らに起こるそれぞれの感情を細かくまで想定できていなかった。8歳は小2、6歳は年長、2歳は1歳児クラスなんだから、当たり前だったが、私は自分が向き合えるかのことばっかりだった。

最初に「じいじが死んじゃったよ」と伝えたとき、それぞれが暗い顔をしていた。でも、「ママしばらく元気でないと思うけどごめんね」というと、ちょっと凛としていた。代わりに頑張ろうと感じたのだろう。「じいじと会えるの最後だから、お手紙とか絵とか、準備してね、かっこいい服できてね」と伝えたら、3人とものりのりで用意してくれた。

式当日、
8歳の娘は、お友達からの前情報が入っていたようで、お桓の中のじいじの顔を見なかった。
6歳息子は、じいじの似顔絵を握りしめて「じいじは?」と笑顔で聞くので箱の中で眠るじいじを見せたら呆然としていた。
2歳息子は、「じいじは?」「じいじ寝てる」「じいじ箱の中で寝ちゃったの?」といい、そのあとは普通にしていた。

式が始まる前に、私も写真を入れた。娘が、「じいじが一番好きなのはばあばなんだから、ばあばの写真いれるのが一番いいでしょ」というので用意をして、それを母や母の妹(叔母)に伝えていたら、父と母の娘としての私が堪えきれなくなって泣き始めてしまった。

式が始まり、父の式は教会であげたので、聖歌が流れた。母の啜り泣く姿を半身で感じながら、おしゃべりの声の調整ができず「じいじは?」という声が響いてしまう息子に半身集中する。雰囲気に子どもたちがすぐ耐えられなくなって、夫が3人を外に連れ出してくれた。

神父様のお話がはじまったころ、外で大泣きする声が聞こえたので慌てて外にいくと、6歳息子がぐしゃぐしゃになって泣いていた。

死をはじめて理解したら、色々怖くなってしまったみたいだった。教会の外で、
「こわかったね」「うん」「にこにこのじいじに会いたかったよね」「うん」「ママもにこにこのじいじに会いたいよ」「うん」「にこにこのじいじを覚えててあげてね」「うん」「ママは息子くんがいるから心強いよ」「うん」「ママは死なないからね」「うん」「息子くんも死なないで元気でいてね」「うん」というやりとりをふたりで大泣きしながらした。母親として息子が初めて死に直面したとき支えるべき心構えでいることを、想定していなかった。娘としてばかり準備していたとそこではじめて気がつく。爆発しそうな感情をふたつ抱えると、いつも出来ることが出来なくなる。

今回、喪主は兄が努めてくれていたので私は特に立場も何もなかったが、せっかくきてくださった父のご友人のみなさんに最後挨拶をするつもりがろくに出来ず、思った通りに動けなかった自分に呆然とした。

式の後、火葬場へ移動する最中も「じいじは?」「じいじ箱の中にいるよ」「じいじ箱の中でねんねしてる」というやりとりを100回くらいした。火葬場で待っているときに、子どもたちに「じいじは?」と聞かれ、神父様が「じいじは変身中」といっていて、良い表現で救われた。2歳は、「じいじは変身して小さい箱に入っちゃった」と帰り道ずっといっていた。

ちなみに、8歳娘は、前述の通りお友達の前情報により、緊張した顔で「もう焼いたの?」と弟たちに聞こえないように小さな声で聞いてきた。「焼いた」という言葉の強さ。年齢によって情報リテラシーはそれぞれだ。

想いと状況説明が入り乱れて大変長くなったが、お葬式のルールについてなんて書いてあるインターネットの記事はたくさんあるけど、お葬式で体験する、小さい子どもの母(もしくは父)である方が、亡くなった方の娘(もしくは息子)を両立するためには相当心の準備をしておく方がいい、なんて聞いたことがなかった。こんなこと読んだところで、何か準備できるわけではないが、備忘録として書いておく。

残されたデータから残された家族が感じること

父が残したものを、母と兄と私で整理するのは、父がかなり準備していてくれたこともあり、人から聞くより大変ではなかった。それでも、この数百円のクレジットカード引き落としは何?というのがなかなか突き止めるのは地味に大変だった。自分自身、どのサブスクを契約しているか気に留めていないので、父の世代くらいまでギリギリそういったサブスクが最低限で、私が急に死んだたら夫は大変だろう。流行りの終活では、その辺もプログラムに入っているのだろうか。

その中で、「父の携帯を解約する」というのは寂しさが強かった。たくさんやりとりしたLINEは番号と紐づいているので、解約したら既読にすることはできなくなるし、解約した携帯番号を誰かが使い始めたら、LINEのアカウントも消滅する(理解が間違っていたら誰か教えてください)。バックアップはもちろん取ったが、寂しさが強いものだ。解約する前日、母から大量の画像が家族のグループLINEに送られてきた。家で飼っている猫たちの写真は撮らないのに、お散歩にいったときに会う野良猫たちの写真だった(一部蝶や花)。

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やたらたくさんある。父の携帯の写真フォルダを見たことはもちろんなかったので印象的すぎた。視点はこうやって残るのだ。写真としていい写真なわけじゃない。消しても良いのかもしれないけど、居なくなってしまったら残された側としては消せるわけがない。亡くなる前に自分で消しておくのか、残された側のクラウドサーバーを食うのか、どちらがいいのか正直もうわからない。私は、父の視点を見られてよかった。

コロナ禍の高齢者の籠城状況の実態

また、現実的な話だが、まさにコロナ禍においての実態を目の当たりにした。70歳の母がワクチン1回目を接種できたのが6/4のこと。父が亡くなって久しぶりに実家に入ると、コロナ禍での病人と面倒を見る高齢者が、感染を避けてどれだけナーバスになりまさに籠城するかのように暮らしていたのか、コロナ禍で闘病の末亡くなるということがどういうことかを感じさせられた。多くの人が感じているだろうが、一年半旅行はもちろん、外食もできず、散歩も行かれず、孫にも会えず、治療の結果がでない、悪くなっている、コロナは収束しない、どちらかが感染すればどちらからでも最悪の状況、というのにはとにかく息が詰まったと思う。飼い猫にはきっとどれだけ救われたかわからないだろうから、保護猫2匹は実家に来ていつも通りに過ごしてくれて感謝している。

そういうときの声のかけ方

最後に、誰もが必ず体験する「親の死」「身近な人の死」。誰かが直面しているとき、なんと声をかけるのがいいのか、体験したことがなければ複雑な思いだろう。私が一番辛かった声がけは、「もう元気になった?」だった。早く元気になったらいいということでの言葉だと思うが、直後も、3ヶ月経った今も、なるわけないだろう、元気になんか。寂しいのは当たり前だ、と思っている。

父が3月に入院したときに、もしかしてこのまま死んじゃうのかな、と思い、亡くなったときの準備をしていなかったと気づき、よくしてくださっているブランドのデザイナーとやりとりして、ブラックドレスを仕立てた。一番近い人が亡くなったときに、心許ない姿でいくのは不安だと思うから、お守りになるといいなと。仕立てる時間は待ってくれて、父は退院した。それくらい、心の準備はできていた。

そうやって、4年間も気を配って準備してたのに、もしかしたら生きている姿に会えるのは今日が最後かもというタイミングで一度家に帰らなければいけないとき、駐車場で泣いた(実際最後になった)。「こんなに準備をしていたのに、寂しいんだ。今日そういう感覚があるんだ」と自分で驚いた。

逆に、ご両親健在の親友に、「子どもたちの母と父の娘としての感情が爆発して、父の友人にちゃんとした挨拶をひとつもできなかった」というLINEをしたら、「そりゃそうだよ、来てくださった方々は全てわかってらっしゃるから大丈夫。はー泣」と返してくれたのには本当に元気付けられた。

そのほかにも、その人の言葉で反応をもらえることが本当に励みになるんだなと強く実感し、本当にありがたかった。これから私も誰かに声をかけるとき、そんな言葉をかけられる人でありたい。

取り止めもなく書いたが、色々な視点から、はじめて「親の死」を体験し感じたことを今だから記録しておく。誰かの心の準備に、少しでも貢献できたら嬉しいです。

サポートいただけたいた方は仲間と思って日々精進しようと思います。とりあえず、ビールを買って乾杯させていただきます。