原子力規制のあり方について真面目に考えるべき時。
福島原子力発電所事故をきっかけに、日本の原子力規制は根底から見直されました。組織体制が変わって独立性の高い規制機関として原子力規制委員会が設立され、また、規制の要求するレベルや内容もゼロから作り直されています。これまでの安全レベルでは不十分であり、原子力技術を安全に使い続けるにはこれを高めていく必要があるとされたからです。
そう。「使い続けるには」です。原子力発電を放棄するのであれば、規制のあり方をいじるのではなく、「脱原発法」でも作って、原子力発電所の使用をやめさせれば良いわけです。もちろん、代替する火力発電所の燃料コストやCO2排出増加の問題、エネルギーセキュリティの脆弱化をどうするか、これまでわが国の原子力政策に貢献してこられた立地自治体への補償、プルトニウム問題など国際的な説明責任など課題をどうするかを明示する必要はあります。野党から出された「脱原発法」はこうした具体策が全く欠けたものでその点は批判せざるを得ませんでしたが、わが国が規制を強化したということは「いかに安全性を高めて、使えるようにするか」が目的であったはずです。
では、安全性を高める「良い規制」とはどのようなものでしょうか。
例えば規制機関が、当初求めていた安全対策よりも高いレベルの対策を求めたとします。皆さんはどう捉えるでしょうか?
「安全サイドに見ておくに越したことはない。原子力事故は許されないのだから当然の措置だ」という反応が多いのではないでしょうか。
私たち消費者は、安全対策は「足し算」であり、足せば足すほど安全性は高まると理解しがちです。コストという課題はありますが(規制の費用便益の話についてはまた回を改めて)、「とりあえず」「念のため」「海外では」で、安全対策の足し算は正当化されやすいものです。
しかし、無限の足し算の先にあるのは、究極の安全なのでしょうか。
実はそんなことにはならず、むしろ、輻輳化・多層化しすぎた安全対策が「滑稽な安全の姿」(「安全目標」再考-なぜ安全目標を必要とするのか?-より)に陥り、いざという時のレジリエンスを損なう可能性もあると考えています。
手抜かり・手抜きはもちろん許されませんが、過度な足し算も無い規制を可能にするには、現場をよく知る事業者と規制機関がよくコミュニケーションをとりながら「全体設計」のなかで安全性を求め続けることが必要ですし、国民が規制活動を適切に監視する必要があるでしょう。規制によって実効的に安全性が高まる仕組みになっているか、規制による説明責任は果たされているか、規制によって過度なコスト負担が国民に課せられていないか。「とりあえず厳しめで」という単純な思考ではなく、適切な規制活動に向けて国民がきちんと監視していく必要があるでしょう。
今の原子力規制は残念ながら、事業者とのコミュニケーションが取れているとは思えませんし、国民に対する説明責任も果たしてもらっているとはとても思えません。こちらの論考「我が国の原子力発電所運転期間延長手続きとその課題―関係法令・運用に関する分析と国際比較―」などは、規制活動の問題点を端的に指摘した一例ですが、この状況は非常に憂慮すべきものです。
2016年1月に亡くなった澤昭裕先生が懸念しておられた原子力規制についての課題意識は、今でもそのままです。ぜひ「原子力安全規制の最適化に向けて」をご一読下さい。
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