ガザについて、僕たちでも始められること。 知ること、語ること ①circlogue、②草サッカー、③日常の排除や暴力
メリークリスマス、ミスターローレンス(ハスキーボイスで)
どうもメタバースクリエイターズ若宮です。
先日、とあるイベントを開催してみて、「語る」ということについて改めて思ったことを書きます。
「ガザについて知ることから始める会」をやってみた
先日、渋谷のQWSで、こんなイベントを開催しました。
アラブ文学者の岡真理さんの早稲田講義の動画を見て、その後語るイベント。
ガザについて心を痛めているものの、なにができるか分からないままに過ごしている人も多いと思います。僕もそうで、何ができるだろう、と無力感に打ちひしがれるうちに、日々が過ぎています。メリークリスマスな今この瞬間も、ガザでは病院やライフラインや民間施設が攻撃され、子どもを含む人たちが執拗に何度も殺されている。
「戦争」や「紛争」という言葉が使われますが、僕はそこで起こっていることは国際法違反のgeno-side(種の殺戮)に他ならないと思っています。https://twitter.com/midoriSW19/status/1738438891869262254?t=-bnen30N_Sgmod-jQbgwzw&s=19
先の大戦でのナチスのジェノサイドを僕たちは「過ぎ去った歴史」として、いわば時代の外側から非難するわけですが、それが同時代で起こっている。
それをただ見過ごしていいのだろうか?
しかし(今になって何度も痛恨に思っていますが)、ぼくはいわゆる社会科という学科が大嫌いだったので、歴史も地理も一般常識レベルのことすら知りません。
よく知らないのになにか発言するのはよくないのではないか?そもそも当事者ヅラして異国のことに口を出すのはどうなのか?政治的なことを発言してめんどくさい人だと思われたら困るな…。デモとかする人ってなんか怖そうだな。
こんな風に、ガザについて全く無関心ではないのだけど、だからといってなにかアクションするのも躊躇われる、そんな方も多いのではという気がします。
僕自身そうで、だからまず、知ることから始めてみよう、という会を開催することにしました。主催である僕自身がガザの問題についてまったくの素人なので、まずは知り、そして少し、フラットに語る場をもってみる。
僕は何も知らないので、今回のイベントではあえてどちらか一方の意見だけに偏らないようにしました。といっても!!双方の言い分もあるにしても、行為としてジェノサイドは絶対にいけないと思っています。
これはもうぜったいに。だって2023年だぜ?令和だぜ?
けれど、それでも。一方の主張が正論として強すぎるとその場に入れない人も出てくるので、フラットな場にしました、今回は。(それじゃダメだ、という意見はあるでしょうが、なにを取るかを考えてその設計にしました)
①circlogue(仮称)のすゝめ
イベントではまず、開始時にグランドルールをお伝えしました。
差別や暴力的な言動は禁止。しかし誰かが誰かに特定の思想や行動を強要することはなく、フラットに語れる場所にしましょう。参加者の皆さんがこのルールを守り、互いに尊重し、寛容性のある場をつくってくださいました。
ところで、よく争いや差別を失くすには「対話」が大事、ということが言われます。これは理想だと思うのですが、個人的には最近、「対話」という言葉にどうもしっくりこない感じがあるのです。
「対話」は、「ダイアログdialogue」の訳語として使われます。余談ですが僕はダイアログという言葉についてずっと勘違いをしていました。mono-logueという言葉があるので、「di」って「二人で」話すことだとおもっていたのですがどうもちがうようです。
「di」ではなく、「dia」は「through」とか「across」とかみたいな意味なので、別に「2人で」という意味ではないんですね。
とはいえ、「対話」には「対」(つい、たい)という語が入っているのでどうも1on1で相対して話すような感じがしますし、「反対」の「対」でもあるので、ディベートっぽいイメージもあります。本当はそういう意味はないわけですが、議論していずれかの結論を出す、というような感じがする。
なので、この会ではあえて「dialogue対話」にならないようにしてみました。これを試しに「circlogueサークローグ」(日本語に訳すと「円話」みたいな感じでしょうか)と呼んでみます。
やり方は簡単で、物理的にも椅子を円形に配置し、車座になってお話をするだけです。各自話したいことが生まれた人が話し、それに次の人が続きますが、ここでAさんの後にBさんが話したとしても、それが必ずしもAさんに「対する」応答ではなくていい、というのが対話とは異なります。
誰かが話したことが次の人の意見を触発したりもしますが、といって必ずしも続きの話でなくてもよく、順番も決めないままリレーのように話が紡がれていきます。
キャッチボールやラリーではなく、昼休みのバレーボールのような、これはなんというか、「答えを出さない」ことを目指した語りです。
僕は企業や授業でワークショップをすることがありますが、深い議論をする時は1グループを4〜5人に限ります。なぜかというとそれ以上になるとちゃんと議論ができずに話が収束せず、「何も決まらない」ということが起こるからです。それを敢えてする感じ。
ジェンダーなど多様性に関する議論でもcirclogueはおすすめかもしれません。異なる正義と正義が話す時、対立構造になりがちだったり、拙速にどちらかに意見を収束させようとしてしまい、ともすると押し付けになりがちだからです。
どこまでいっても分かり合ないこともあります。多様性というのは、それでも語ったり共にあろうとすることで、そのためには適切な距離と時間も必要。「対立」にならず「円」で語るのがいいのかもしれません。
②草サッカーから始めよう
「知ることから始める」というのがイベントの趣旨だったわけですが、参加者の方から、ガザのことをよく知らない自分でも語れるオープンな場があって良かった、というコメントをいただきました。
それをきいて、専門家ではなくても、自分の考えを自分の言葉で語ることは大切だなあと改めて思いました。
もちろん、ちゃんと調べることも大事です。SNSなどでも誤った情報を不用意に発言してそれが拡散されたりしないようにファクトチェックは大事です。しかし一方で、「素人は黙ってろ」みたいな感じになってしまい、語ったり考えたりする機会自体が奪われるのも勿体無いとも思います。
もっというと、自分の考えを「発話」する機会はほとんどないのが現代社会だなと。それはもう意外なほど。そういうことに気づきました
アートについてもよくいうのですが、アート界が盛り上がるためには、専門家やアーティストだけではなく、アートに興味を持つ初心者が増えることが大事です。時々、せっかく興味を持ってくれたのに、アート・ワールドの「中」の人が「素人」や「にわか」とそれを受け入れずに拒絶するような場面に遭遇して残念に思うことがあります。
サッカーが盛り上がるのにはクリスティアーノ・ロナウドみたいなごりごりのスターやプロも大事ですが、それ以上に、草サッカーみたいな感じでサッカーを身近に楽しむ人口が増える方がいいはずです。少なくともプロ選手が草サッカーをしている素人に対して、「あなたがやっているのはサッカーではない」なんて言わないはずです。「いいね、もっとこうすると楽しいよ」というのではないでしょうか。スター選手だってそういうところから生まれてきたはずだからです。
このことは専門家やプロのすばらしさとは背反しません。専門家がいるからこそ、正確な情報を知ることができます。しかし、「草サッカー」のように「素人」ももっと色んな場で語っていっていいのではないでしょうか。そこから議論は深まっていくはずです。
③日常の排除や暴力
先日のイベントで考えさせられた3つ目のことは「日常の排除や暴力」ということです。
サークローグの最初のうち、参加者の何人かから、ガザの問題に対して「臨場感」がなかなか持てないこととそのことに対する罪悪感のようなものについて話が出ました。僕らは平和な日本で生活していて、ガザの状況とはかけ離れているわけです。実際、僕たちがガザの痛ましい現状をみて胸が苦しくなっていた会場のQWSの下の階ではクリスマスライブが開催されていて、陽気な音楽と拍手喝采がずっと聞こえていました。いつあるかわからない爆撃に怯え、明日があるかわからない状況と、渋谷の一等地の豪華な商業ビル。なんと遠いところにいるのでしょう。
そして話は、ガザの問題だけに限らず、色々な話に広がっていきました。まず、日本もいまは平和だけど、アジア圏では色々な対立もあるしそうした争乱にいつ巻き込まれるかわからないよね、という話が出ました。
戦争はよくないことだと思うけど、攻められたらどうするのか。日本の安全や経済的な安定が揺るがされる時、戦争に加担する選択肢が取られうるのではないか。実際のところ、日本も貧困化や二極化が進行する中で治安が不安定になったり、そうして余裕がなくなるのと比例して、隣国に対するヘイトも増えています。
ガザでは人種や文化の対立があるけれども、実はそうした分断による排除、暴力は僕たちの日常、身近なところでも起こっているのではないか?
そしてそうしたわたしたちの日常の中にある排除を考えてみると、必ずしも正論だけではいえない葛藤に気づきます。たとえばホームレスの排除。バス停のベンチの工夫やそれこそ「排除アート」なんていう言葉があるけれど、税金で街からホームレスが一掃されれば多くの住民が感謝する。そんな差別は許せない、と思う一方で子どもと公園に出かけた時ホームレスの方から距離をとってしまう自分もいる。
イベントにはたまたま、犯罪や非行をした人の立ち直りを支える保護司をしていらっしゃる方がいて、やはり犯罪歴があると社会に排除されがちで、再犯にいたってしまうケースが多いとおっしゃっていました。その方は女性だったのですが、うちに招いてお話をするのだそうで、それはとても勇気がいるな、と思ってしまった。僕はしばしばダイバーシティやインクルージョンのことを言っているけれど、果たして自分はそうできるだろうか。家に招くって危なくないの?そうおもうことは差別ではないのか。
ガザの問題でも、ハマスによる自爆テロは決して許されることではありませんが、その背景には「天井のない監獄」と言われるような70年近い排除がある。(「監獄」どころか、生命も保証されない、強制収容所のような過酷な環境です)
出所者が社会に受け入れられず犯罪を犯すしかなくなる構造的な問題と、ガザの状況は似ている部分があるかもしれない。といって暴力や犯罪が正当化されるものではありませんが、それを生む排除がある。
僕らの日常にも、排除や暴力、差別は存在しています。ガザの問題と地続きかもしれない。ガザは遠い異国のように思えるけれども、僕らの日常にも「小さなガザ」があり、それはけっして他人事ではないし、僕たちも当事者である。
地続きの日常に想いを馳せながら僕たちの日常を生きること
ガザを知ることから始める。そういうイベントをしてみて、参加者の方と語って、色んなことを学びました。ガザというとどこか遠い話で、日本では少し触れずらいテーマかもしれない。
「平和ボケ」と言われがちな日本ですが、平和にクリスマスを迎えていることは改めて素晴らしい。でもこの平和な日常のありがたみを忘れてはいけない。改めて考えてみなければいけない。
そして。ガザの状況に臨場感や当事者性をもつことは難しいかもしれないけれど、僕たちの日常にも、排除や暴力は存在している。
ガザを知り、語るだけでは直接的にガザの空爆を止めることはできない。けれど自分たちの周り、その日常の中で排除や暴力、差別をなくすことは、繰り返される戦争や分断を止めることにどこかでつながっているはずではないでしょうか。
イベント後、参加者からこんなメッセージをいただきました。
ガザの問題は遠いことのようだけれど、「僕たちの日常」でできることはある。ガザで起こっていることは僕らにとっては想像力が及ばないような非日常ですが、恐ろしいことにそれはガザの人々にとっては日常で、だからこそ、それが僕らの日常とも繋がっていると感じることが「自分ごと」にすることかもしれない。
ガザの悲惨な現状に、無力感に打ちひしがれそうになる時もたくさんあります。でもとても微力だけれど無力ではない。小さくとも変化を起こしていくために、知り、語り、自分の日常を見直すところから始めることはできるのではないでしょうか。
(ぜひ岡真理さんの講演動画も御覧いただけたらうれしいです。
↓こちらの記事もとてもわかりやすいです。