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「鬼滅の刃」が与えてくれる爽快感と、その背後にあるもの

今や、「鬼滅の刃」の人気の勢いは日本を超えて、海外にも広がっています。映画「鬼滅の刃 ~無限列車編」から火がついて、コロナ禍のなかでその人気はAmazonのような映像配信サービスや、漫画に広がり、あらゆるところにその影響が見られます。

プレーステーション(PS)発売以降、ヒット商品がなかなか出ずに営業不振で苦しんでいたソニーは、いまや「巣ごもり需要」と、傘下の「アニプレックス」による映画「鬼滅の刃」の記録的なヒットにより、業績が上方修正され、「初の純利益1兆円超」という喜ばしいニュースが踊りました。暗い中でも、かならず明るいニュースはあるものですね。

このPSと「鬼滅の刃」の二つが成長のエンジンとして、ソニーの業績を牽引しているようです。コロナ禍が収まれば、ゲーム機器や映像配信の需要は小さくなることが予想されますので、「鬼滅の刃」ばかりに頼ってはいられないのかもしれません。テレワークで、ソニーのノイキャンのワイヤレスフォンにもとてもお世話になっており、重宝しております。

でもそのまえに、ちょっと気になることがあります。なぜ、「鬼滅の刃」がこれほどまでブームとなったのか。色々な方が、すでに論評を行っておりますので、あまりアニメに詳しくない私が詳しく論じることは避けたいと思いますが、国際政治学者という職業柄、色々な社会の潮流を通じて世相を感じ取ったり、また人びとの心理の変化を理解する努力をしてしまう癖がついてしまいました。

まず、「鬼滅の刃」において、主人公の炭治郎をはじめとする鬼殺隊が鬼たちを斬りまくる爽快感。

これは、「半沢直樹」の心理構造と似ていますよね。屈辱を受けて、挫折をして、耐え忍んで、鍛錬と準備をして、「敵」をぶった切る。これにより、たまりにたまったカタルシスが一気に解放される爽快感を浴びる構図が、コロナ禍であまり外出もままならず、遊園地でジェットコースターにも乗れないような人たちのうっ積した感情を、いっき解放してくれるのでしょう。刀で斬る、という構図は、剣道部出身のバンカーである半沢直樹、「鬼滅の刃」の炭治郎、さらには同じく今世界的なブームとなっている「テレビアニメ進撃の巨人 ~ファイナル・シーズン」において立体起動装置の刀を駆使する調査兵団の兵士たちと、みな共通します。

観る者が爽快感を得るためには、やはり「刀」は効果的なのですね。

他方で、半沢直樹や進撃の巨人とは異なる点として、「鬼滅の刃」における、鬼殺隊に斬られたあとの鬼達の回想シーンが独特な空気を生み出しています。というのも、人を喰らう鬼達が、かつては人間として温かい家族や恋人、兄弟、友に囲まれていたのが、不運や不幸、あるいは奢りを原因として、「鬼」へと堕落する過程を後悔するシーンがあまりにも多いからです。

すなわち、「斬る側」の鬼殺隊の視点と、「斬られる側」の鬼達の視点が混ざり合い、必ずしも「善悪二元論」とはいえない、奥行きのある情景を作りあげているからです。コロナ禍の下では、何時誰がコロナに感染するのか、あるいは感染させてしまうのか、分かりません。コロナ禍の下では誰かからうつされて感染症の「被害者」である者が、まるで「鬼」のように扱われて「加害者」となってしまう。誰が悪いのか分からないけれども、誰かを責めたり批判したくなる。このような心情の中で、「鬼滅の刃」を観た人たちが、そのような「鬼殺隊」と「鬼」という関係性における、「加害者ー被害者」関係を重ね合わせたとしても不思議ではないですよね。

さらには、コロナ禍で緊急事態宣言が発令されると、本来は美味しい料理を食べてもらってお客さんに喜んでもらおうという良心から飲食店を営んでいる人たちが、午後8時以降の営業をすることで、感染源のクラスターとなってしまう懸念から、非難に曝されるという悲劇に陥ります。そんなはずじゃなかった。みんなに喜んでもらいたかった。もしも店を閉じたら、そもそも生活することさえできないじゃないか。誰を責めたら良いのか分からない。自分は何も悪いことをしていないのに、なんでお店が倒産するんだ。そのような理不尽な不幸に覆われた人を、「鬼殺隊」は助けることができません。「鬼殺隊」の仕事は「鬼」を斬ることですから。

いまの政府も、「鬼殺隊」のように、国民の生命や安全と、安心した暮らしを守るために、政府の方針に従わないいわば「鬼」(クラスター発生源)たちを「斬る」(予防する)必要が生じます。他方で、炭治郎のように、本来は悪いことをしたいわけではなかったのに、偶然や、災難によって、やむを得ずに「鬼」(クラスター発生源やコロナ感染者)となってしまった人たちに同情をして、その苦しみに共感するような政治も必要なのかも知れません。

「鬼」を「斬る」爽快感をわれわれは欲している。しかしながら、「斬られた鬼」たちへの、炭次郎が示したような共感や同情がなければ、われわれの社会は成り立たない。いわば、トランプ政権末期にわれわれが見たトランプ支持者たちの叫びと行動は、アメリカにおける見捨てられている「鬼」たちの蠢きのようにも感じられます。政治は「斬る」ことも必要ですが、「共感する」ことも必要です。その双方を持つ「炭治郎」こそが、われわれの時代の英雄なのかも知れません。

アメリカにおけるGAFAや、日本におけるソニーが、コロナ禍で営業成績を好転させていますが、さらにその先にかすかに見えるものまで、われわれは目を向ける必要があると感じました。

#日経COMEMO #NIKKEI

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