「失敗」を社会の「資産」にしよう
お疲れさまです。uni'que若宮です。
今日は「失敗」について書きたいと思います。
改善につなげれば失敗は「あってよかった」資産になる
人間は誰でも必ず失敗します。
失敗しない人はいませんから、「失敗」は人間性の不可欠な要素だとすら言えるかもしれません。
ただ人間、失敗するとやっぱり落ち込んでしまいます。失敗した自分を責め、思い出したくないと失敗から目をそらしたりします。しかし失敗をネガティブに捉えすぎると、かえってまた同じ失敗をしてしまうことにもなりかねません。
失敗を「資産」にするためには、失敗から学び、次回には同じ失敗をしないように改善することが大切です。その失敗がなぜ起こったのか、どのように改善すれば回避できるのかを考え、やり方をアップデートするわけです。
失敗があった後、こうした改善ができれば、過去の失敗から得られた知識や経験はその後の成功につながる資産となります。僕自身も、かつてイキったロジカルクソ野郎時代があり、チームマネジメントで大失敗をおかした経験があります。その失敗からチームメンバーそれぞれのスキルや力を「生かす」ことこそ重要だと骨身にしみて学び、それが今のマネジメントの考え方にもつながっています。
あの時の失敗がなければ、ひょっとすると今あのままに「勘違いおじさん」になっていたかもしれません。そういう意味であの失敗は、「あってよかった資産」になっています。失敗を避けるのではなく、「失敗」から学び資産にすることができるなら、失敗は避けるべきものではないのです。
失敗は個人の問題ではなく、社会の共有資産になる
失敗は個人にとって資産になるという話をしましたが、それだけでなく、「社会の共通資産」だとすら言えるかもしれません。
たとえば道でつまづいて転んだとします。その失敗から学び、ちゃんと足元に気をつけるように意識や行動を改善するのは大切です。
しかしもし道路が舗装されておらず、穴だらけで歩きづらかったら、足を引っ掛けて転んだり、怪我をしたりしてしまいますよね。この場合、個人の注意ももちろん必要ですが、環境にも問題があると言えます。
「社会システムのバグ出し」というような表現をよくするのですが、システム開発では通常の使い方でバグチェックをするだけでなく、わざわざ「異常系」と呼ばれるようなイレギュラーな使い方をして、想定外の挙動がないかをチェックします。
処理の失敗や誤作動は、システムのバグ起因の可能性もあります。それをユーザーのせいや単なる個別事例としてスルーしてしまうと、同じようなエラーは以降も発生しづけるでしょう。
勿論、まず自分自身が失敗を繰り返さないよう、どうすれば改善できるかを考えることは大事です。「他人と過去は変えられないが、自分と未来は変えられる」とよく言われるように、自分を変える方がコストが低いからですし、社会全体としての問題を解決するには、時間がかかることが多いからです。
それでも「全く自分は悪くない」と反省をしない他責思考の人は、同じ失敗を繰り返してしまうでしょう。なのでまず自分自身の改善を考え、しかしその後で社会構造に問題はないかと問いアクションを起こすことも重要だと思うのです。後者なしに自分の改善だけを続けると、おかしな社会システムに人が最適化してしまい、かえって社会の改善を妨げてしまうこともあります。(遅々としてすすまないDXや過去の価値観の女性が女性活躍を妨げるというようなことはこうした個別最適化の弊害ではないでしょうか)
「失敗」は個人だけでなく「社会全体の共有資産」として、個人と社会全体の問題の双方を改善するために生かしていくことが重要です。
自己責任や個人攻撃に終わるもったいなさ
日本では最近も自己責任論が強く、失敗した人がつるしあげられ、個人攻撃されたりしがちです。
ロケットの打ち上げや中高生のやっちゃった事例、政治家の失言などでも、それを単に個別の事例として扱い、個人攻撃をし「炎上」させて燃やすと共有資産にならないのでとてももったいないと感じます。
先に述べたように、もちろんまずは本人が、「失敗」をちゃんと反省し次にむけて自ら改善しようとすることが大事です。他責にして言い逃れしたり、逆に「あなたには関係ないでしょ」と居直ったりするのでは「資産」にしようもありません。
しかしたとえいかにそれが個人的な失言に見えるときでも、そこに環境的・構造的な問題が潜んでいる可能性があります。「失敗」を本人が反省した上で、周りの人も「他人事」として片付けてしまうのではなく、そこに潜む社会構造の問題についてを考えてみることも大事です。
僕はジェンダーやダイバーシティについてある程度気をつけている方だとは思いますが、それでも「失敗」「失言」してしまうことがあります。1970sに田舎で育った昭和の男性にとって、どれだけ気をつけていても「死角」があるのですよね…
こうした「失敗」があった時、個人だけを責めても本質的な解決にならないこともあると思っています。構造的・環境的な問題として、社会全体の認識をアップデートしたり、バイアスが維持されやすいホモソーシャルな環境自体を変えていく必要があるでしょう。
先ほどの舗装の悪い道の例のように、環境に問題がある場合、転んだ個人の「自己責任」とは言えない部分もあります。たまたま自分は転ばずに通れたとしても、その後に歩いて来る人達が転ぶかもしれません。その意味では先に穴にはまって「失敗」した人がいるおかげで、社会の改善につながるわけで、その「失敗」は以降多くの人が転ばないようにしてくれる「共有資産」なのです。
「失敗に寛容な社会」とは?
日本の社会は、失敗に不寛容だとよく言われます。
一回の失敗で全てが終わってしまうようなキャンセルカルチャーが蔓延すると、みんなが失敗を怖がり、本音で話すこともできなくなります。スポーツでもし一発退場のレッドカードしかなかったら、のびのびプレイすることはできなくなってしまうでしょう。
ただし、「失敗への寛容さ」とはどんな失敗も「まあいいでしょ」とスルーする社会のことではないと僕は思います。それでは現状維持にしかならず、失敗が無反省に繰り返されてしまうからです。
そうではなくて、「失敗」を資産としてとらえ、個人の、社会の改善につなげていくこと、そのためのきっかけとしてチャレンジャーの「失敗」に敬意を払うこと、それこそが本当の「失敗に寛容」ではないでしょうか?