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北京オリンピックに学ぶ。

 オリンピックはいつも断片的にしか見ていないので、全体感でこのオリンピックはどう、という総括は特にない。北京に至るまで、種目別にどういうドラマがあって、というような経緯もよくわからない。ところどころをつまみ食いをして楽しんでいる。

そんななか社会人として、自分に引き寄せてみると色々な気づきがたくさんあった。まだ期間中ではあるが、僕が仕事をするうえで学びになったことを共有する。

1.夢が人を解き放つね

 これまでの競技で一番印象に残ったのは、なんと言ってもスノーボードのハーフパイプ、平野歩夢選手の決勝での3回のチャレンジだ。飛ぶ高さとグルグル度合い(回転)が人間技を遥かに超越しているような印象だった。

 どんなスポーツを見ても大抵、一流選手のプレーはすごいとは思うし、いくら鍛えても自分にはできないなとか、同じ人間かよ!という感想を持つことはままあるわけだが、平野選手の技は、そういうレベルを遥かに超えて、本当の本当にこれは同じ人間ができることなのか?なんなんだこれは?という驚きを感じた。

 印象的だったのはその平野選手が、金メダルを決めた後、インタビューで
「小さい頃の夢がひとつ叶った。これを取らずには終われない」
と答えていた。多くの選手がこう言うと思う言葉を、あの人間離れした技を繰り出す平野選手もまた同じように言うのが、とても印象的だった。

 当たり前だが改めて感じたのは、強い夢があるから努力するし、チャレンジするということだ。人間技を超越していたとしても、それは同じなのだ。その積み重ねの結果が金メダル、というかあの技に昇華したわけだ。そして夢を実現するために、2回目に不本意な採点結果があって内心は怒っていても、それを集中力に変えて、落ち着いて3回目に臨めたのだ。それは全て、夢を叶えるためということだ。

 そう聞くと当たり前のように感じられるのだが、一方で私たちは、そういう「夢」を見て、その実現のために頑張れているだろうか?とふと思った。もちろん、彼のように世界中の人々に感動を与えるのは難しいかもしれない。だとしたら、夢を見なくていいのか?それを常に、問うていきたいなと。やっぱり、夢があるから努力できるし、何かを成し遂げられるのだよな。私たちは。

 それが平野歩夢選手から僕が学んだこと。僕らも夢を見よう。そして夢の実現のために踏み出し、チャレンジしよう。夢は私たちを解き放つのだ。

2.  感覚に頼った評価はダメだね

 そして平野歩夢選手の2回目と3回目の点数の差は、いったいなんだろう?と思った。これは多くの専門家やニュースキャスター、そして一般人の多くも強く疑問を呈していた。

 これはスノーボードに限らず、モーグル、フィギュアスケートなど「ジャッジが点数をつけるスポーツ」においては常につきまとう問題だ。

 僕自身は素人なのでどうジャッジされるかそもそも知らないし、そのジャッジが正しいかどうか、語ることはできない。が、おそらく平野選手の2回目と3回目のジャッジは、順位が入れ替わるほどの差はなかったのではないか、と感じた。そして大きな差をつけたジャッジの国籍から想像するに、何かしらの無意識のうちにもろもろの背景がジャッジに影響を及ぼした可能性があったのではないか、とも考えてしまう。

 実際にはなぜそういう採点になったのかはわからない。わからないが、そう、思わせる人が多い時点で、このジャッジは「人の判断のいい加減さ」を露呈しており、ジャッジのやり方は是正すべきなのだと思う。カメラとAIを活用すれば、きっと正しい評価を機械的に行うことは可能なはずだ。

 また、試合のジャッジ以外でも、スキーのジャンプにおけるウェアのサイズ計測が大きな問題を引き起こした。これも、ルールだから仕方ないとか何かしらの力が働いたのではないかとか色々な意見はあるだろうが、いずれにせよこれまでの計測との連続性、整合性が欠けていたことは間違いない。

 翻ってみると、私たちの仕事において、マネージャーがメンバーの人事評価を行う際、この「人間のジャッジによる曖昧さ」を「仕方ないこと」と思考停止してしまってはいないだろうか。

 もちろん、完璧にデータだけで正しく評価することは難しいかもしれない。どこまでいっても、評価の曖昧さは残るかもしれない。しかしやっぱり、データやAIをフル活用しながらまずは最低限の曖昧さ回避を行なうチャレンジを続けることが大事なのだと考える。公平な評価への飽くなきチャレンジは、私たちはずっと続けていかねばならない、と感じた。

 それが今回のオリンピックで特に目がついた「人間によるジャッジの曖昧さ」から僕が学んだことだ。私たちは人事評価で似たようなことをやってしまっているのであれば、永遠の課題かもしれないが、諦めてはいけないのだな、と強く思った。

3. 正義なき意思決定は不幸しか生まないね

 そして三点目は、直近で話題になったワリエワ選手のドーピング結果検出とその裁定の騒動だ。この裁定はひどかった。

 スポーツ仲裁裁判所(CAS)が下した判断は、全く意味がわからなかった。15歳という年齢によって判断が変わるのはおかしいし、故意か故意じゃないかも、これまで問題になった記憶はない。ドーピングの結果が出た時点で、出場させるという裁定はありえなかったと考える。

 さらに、仮にワリエワ選手が銅メダル以上の成果を収めたら表彰式がなくなるかもしれない、ということを聞いて本当に全く意味がわからず、もうこの裁定をそのまんま実行しようとするオリンピックとはいったいなんなのか、と強い気持ち悪さを感じた。

 ワリエワ選手はそんな状態で衆人環視の中で出させられて、最後の演技でうまくできるはずがないだろう、集中できずに競技どころではないだろう、と考えていたら、全くそのような悲惨な結果に終わってしまった。彼女の選手生命をも脅かすような顛末だった。さらに、ワリエワ選手以外にも、メダル獲得選手たちも、誰も心から喜びを感じられないような状況が生まれていた。

 日本のSNSでも「坂本選手おめでとう!でもワリエワ選手は、、、」とか、坂本選手のことよりワリエワ選手のことを書く人が多く、そうやって坂本選手の銅メダルだけを喜べない状況が確かに生まれてしまっていた。これは全て裁定のせいだ。

 筋を通さず、正義のない意思決定は不幸しか生まないのだ、ということを改めて実感した。これは、私たちの仕事においてもそうだ。誰かが可哀想だ、とかみんなの顔を立てて、とか、また変な理屈をつけて(本件でいえば15歳という年齢)、意思決定の軸をぶらすと、結果は、当初考えられたマイナスを遥かに超えてひどい結果に終わるのだ。

 それがこの騒動から僕が学んだことだ。正義のない、意味不明な意思決定は、決してやってはいけないのだ。誰も幸せにしない。


 以上、自分の仕事に引き寄せて考えるのは職業病みたいなものだが、そんなことを感じながらオリンピックを楽しんでいる。

 でも実は、一番学びになっているのは、ここに書いていない、ロコソラーレ。
カーリングそのものの面白さ、北見でのカーリングの歴史、そして、これまでのオリンピックでのカーリング日本代表の歴史などなど、全てがエキサイティングだ。

 しかしながら、一番はチームの明るさ。特に「そだね〜」「ナイス〜」といったポジティブシンキングとコミュニケーション。「ご褒美」と思えるからこそのリラックス。仕事において、ああいうチームを作りたいな、と思った。

 ロコソラーレ、プレッシャーから解き放たれて、決勝を楽しんでほしい。

(photo by aflo)


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