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自信と慢心はちがう。ちょうど謙虚と卑屈が違うようにね。

お疲れ様です、uni'que若宮です。

タイトルが若干ハルキっていますがお許しください。世代です。

note移行後初投稿ということで、今日はちょっと人生哲学めいた話を書きたいと思います。


自信にまつわる四象限

自分でも心がけていて、キャリアの相談を受けたりした時にアドバイスすることとして、「自信をもって謙虚であれ」というのがあります。

「自信家」というとなんとなく謙虚さの反対のように思われがちなので、「自信をもって謙虚であれ」というとちょっと語義矛盾な気もしますが、僕の中ではこれは両立しうる、否むしろ表裏一体のような性質だと思っています。「本当に自信がある人ってすごく謙虚だなあ」と感じることってとても多いです。そして、だから、自信家の人は好奇心がとても旺盛です。


なんか字面でみているとちょっと混乱してくるので、ちょっと整理してみましょう。

まず、横軸に時間を取ります。左が過去で右が未来です。そして縦軸に(+)と(-)を取ります。ポジティブとネガティブ。


そうすると、このような四象限になります。

この図で考えた時、よくある謙虚に背反すると思われている「自信家」は、実は「慢心家」なのではないかと思うのです。

「慢心」家は、過去に対してポジティブです。学歴や職歴、過去の地位や成功体験など、自分が何をなしたか、というのをひけらかします。こういう人はたとえば他の人から何か指摘された時に聞く耳をもたず、自分の論理を押し付けがちです。

一方、真の「自信」家は未来に対してポジティブです。「自信」というのは「自分を信じる」ということ、もっといえば自分の可能性を信じる、ということではないでしょうか。そして可能性というのは過去に対しての感情ではなく、未来に対しての感情です。

次に、負の領域に移ります。

「謙虚」さは過去に対してネガティブである力です。ただ過去の栄光を守るのではなく、過ちや直すべきところを受け入れ、それを”直す”ことができるのです。

一方、「卑屈」は未来に対してネガティブな人です。謙虚さと混同されがちですが、「どうせ自分は・・・」というスタンスは謙虚さではありません。未来の可能性にネガティブになり、故に狭量になり、閉塞する、それが卑屈なのです。



自信家は、謙虚である。

このように時間軸を元に自信/慢心、謙虚/卑屈を整理してみると、「自信をもって謙虚であれ」ということの意味が少しイメージしやすくなってきます。

「自信」という自分に対してポジティブなものと「謙虚」という自分に対してネガティブなもの、背反する性質と思えたものが、実は時間軸のちがいで両立しうるのです。

いえ、むしろそれは両立というより「相関」と呼ぶべきかもしれません。


「慢心家」ではなく、自分の未来の可能性を信じる事ができる人は、逆説的ながら、過去を改善できると信じられるために、過去のネガティブも受け入れることができる。謙虚に過去の過ちや直すべきところをしっかり受け止め、それを未来に活かしていく。

つまり自信があるがゆえに謙虚であることができ、過去を改善することで未来の可能性が増え、さらに自信を増していけるのです。

グラフでいうと、こういう感じになります。

自信を持って謙虚である、これは「正の相関」です。

一方、慢心家は過去にこだわります。これはその「過去」が称賛されているうちはいいのですが、一度過去の価値が下落すると、とたんに自信を失い、卑屈のゾーンに入る傾向を持っています。自分が変化することに自信が持てないため、周りの足を引っ張ったり、過去の成功体験を押し付けたりします。

慢心して卑屈に堕す、これはいわば負の相関であり「老害」とか「さよなら、おっさん」と言われてしまう傾向がこれではないでしょうか。


過去は無意味なのか?

さて、ここまで整理した上で、もう一つ誤解を招かないように言っておかなければならないことがあります。それは「ネガティブ」の意味についてです。

過去にはネガティブであることが未来へのポジティブにつながる、とすると、過去になしてきたことは否定されるべきで、すべて捨て去るべきものなのでしょうか?

僕自身、DJ→建築→アート研究→IT系大企業新規事業→起業家と、紆余曲折のキャリアを経てきたのですが、色々経験した上でいま思う実感として、このキャリアチェンジは全く無意味だったとは思いません。

最近「アート思考」などアートについての活動をしていたりするのはもともとアート端のバックグラウンドがあるからですし、資生堂さんやJ フロント リテイリングさんのような大企業で新規事業の講演や研修のお話をいただくのは僕が「大企業新規事業」を経験したからです。そういう意味では、過去がめっちゃ活きてる。


実は以前は、キャリアチェンジするたびにそれこそ過去を「否定」していたような時期もありました。起業してスタートアップという業界に入った時、42歳での起業というのはちょっと恥ずかしかった。キャップでもかぶって若作りしたかった。学生起業家がごろごろいるスタートアップ業界では齢を重ねているのはただの出遅れですし、大企業でサラリーマンをしていた、というのは全く自慢にならないと思っっていたんですね。

また、建築やアート研究に関しても、その道を続けている友人たちと比べるとなんとなく「ドロップアウトした半端者」という意識があり、あまり積極的に言えなかった時期もありました。それになにより建築やアートはITやスタートアップに関係ない、とも思っていた。


称賛せず、否定せず、批判しよう。

ですが今、色々な活動をしていて、むしろ「大企業にいたことがあるスタートアップの人」だから言えることがあったり、「アートに携わっていたビジネスの人」だから見える景色がある気がしています。

え?じゃあ、過去を捨ててないやないか。過去称賛してるやんか。それ「慢心」とちゃうんか。適当なこと言うてると耳から手えつっこんで奥歯がたがた言わすぞ。そう思うかもしれません。


でもちょっと待ってください。耳から手をつっ込まないでください。ここで「ポジティブ」と「ネガティブ」という言葉をもう少し厳密に定義させてください。まだ奥歯がたがた言わせないでください。

「過去に対しネガティブ」と言ってもそれはすべて捨てる、ということではないのです。ただ過去をそのままに受け入れてしまうのではなく、直すべきところは直そうという目で改めて吟味し、未来にどう活用できるかを問い直す、ということが大事だと思うのです。

これはネガティブはネガティブでも「否定」ではなく「批判」というあり方だと思っています。


過去をただ称賛するのではなく、といって否定してすべて捨ててしまうのでもなく、批判的に乗り越えながら未来につなげる、正確に言えばこれこそが「正の関数」なのだと考えます。


未来が過去を再編集する、価値化のタイムパラドクス

そしてこの、「過去から未来への批判的昇華プロセス」を通じて成されることは、過去の再編集でもあります。

たとえばいま、「大企業での新規事業経験」が活きていますが、それは起業してスタートアップをしたからこそ、という部分があります。大企業とスタートアップ、どちらも経験したからこそ、「企業か起業か、それが問題だ。」というような話ができる。

「全員複業」というあたらしい働き方へのチャレンジや「女性活躍」という軸ができたのも、大企業での経験が根っこです。そういう意味では大企業での体験が原体験なのですが、この原体験は、もし起業せず大企業の中で出世競争に汲々としていた「ロジカルくそ野郎」時代の自分にとっては何の意味も持たなかったかもしれません。

未来のあたらしいチャレンジが、過去の出来事の意義を書き換える。未来が過去を再編集するわけです。そしてそのように価値化されてみると、過去の無価値に見え、無関係に見えた要素は、すべてが現在と未来につながり、あたかも必然のように思えてきます。Connecting The Dotsというやつです。

未来が過去に影響する、これはある種のタイムパラドクスです。ただし、SFではなく人間の中で起こる、実存的なタイムパラドクスなのです。


いま、起業して、そして「複業」もすることで、僕は活動の幅が広がっていますし、その中でライフワークのようにまたアートに回帰しつつもあります。それは遠回りのように見えるかもしれませんが、実はその道行きのキャリアチェンジがあってこその「オデュッセイア」なのではないか、といまは思えます。


以前、「ユニークさ」ということに関してこんな記事を書きました。


「ユニークである」というのはいまの僕の根幹の考え方ですし、AI時代においてこれからますます重要になってくる考え方だと思っています。でもそういう話をすると「わかるけど、自分はあなたのようにユニークじゃないから。」とか「これからどんなスキルを身につけたらユニークになれますか?」などと聞かれるときがあります。

ですが、ここまで述べたようにユニークさは、「過去そのものではないが、どこか別のところにあるのではなくすでに過去に埋まっている」のではないでしょうか。

過去を批判的に乗り越え、自信をもって謙虚である。そういう人は変化し続けられる人ですし、変化や不確実性がモーメントとなってくるVUCAの時代においてはそういう人こそ強い。

サウイフモノニワタシハナリタイ

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