やってみなはれの誤解 ― 日本人の意思決定法
「段取り八分・仕事二分」とか「準備8割・実行2割」だとかいうが、意思決定のタイミングはなかなか難しい。意思決定するときに発する言葉のなかに、「やってみなはれ」と「まずやってみないと、わからへん」があり、似ているが、文脈はちがう。「やってみなはれ」はリーダーの言葉だが、「まずやってみないと、わからへん」はリーダーにあるまじき言葉。それが混同されている。
1. 「やってみなはれ」の誤解
日本人ははたして論理的か、非論理的か、感情的か、感覚的か、情緒的か。理性的なのか、本能的なのか。論理的・分析的に話す人はともすれば敬遠されると信じられがち。調査・分析検討はするけど、最後は鶴の一声。ここで、「拙速は巧遅に勝る」という孫子の兵法を都合よく持ち出される。
「そんなチャラチャラした資料で長々と検討するのはええねん。要はなんやねん」「やってもせえへんことを、ああでもない、こうでもないと言うててもあかん。まずやってみないと、なにもはじまらへん」と、それまでの議論を吹っ飛ばして、「とりあえず動こう」と始める。
意思決定するうえで、それをやった結果なり出口のイメージを予測して、それがダメだった場合を想定したり、別の案を用意しておいたり、どうしたら成功できるのかを考えたり、どうやったらロスを最小限にできるかという発想がなければいけないのに、それらに思いを巡らす前に、
と意思決定するリーダー・企業が意外に多い。実行計画には再現性が必要だが、背景や前提が盛り込まれていないので、フィードバックも見直しもできない。
たしかに企画・計画をつくることだけが目的の人・企業も多い。だから計画づくりや検討ばかりして具体的に実行・行動に踏みこもうとしない人に対して、四の五の言わず「まずやらへんと、わからへん」と、それまでの議論を一蹴し、意思決定したくなる気持ちもわからなくはない。
しかしそのように意思決定して実行するが、失敗し、おわってしまう。そこで、「なぜうまくいかんかったんや」といったりする。しかし「まずやらへんと、わからへん」は大概準備不足で、なにも考えていないことが多い。「やらんより、やった方がいい」ともいったりするが、なんの準備もせず、だめだったときのことも考えずにやって、失敗したら見直しできない。「やってみなはれ」は準備してこそ発せられる言葉で、気合と根性だけではうまくいかない。
2. ウチかソトか、YesかNoかの日本
またリーダーの意思決定は「シンプル」がいいということを信奉して、単純化し「一点集中」するリーダーも多い。
緊急事態宣言となると、緊急事態宣言一色。オリンピックとなると、オリンピック一色。ワクチンとなると、ワクチン一色。いいか悪いか、白か黒か、YesかNoか、AかBか、集中か分散か、大丈夫か大丈夫じゃないか、なんでもかんでも二項対立。どっちかに触れる。
AでもありBでもある。AでもないBでもないとは考えない。どっちかになる。どっちかになると、それ一色になる。それに一点集中となる。「やってみないとわからへん」と、その1点に集中する。うまくいくこともあるが、うまくいかないと収拾がつかなくなり、取り戻しできない。
このスペースはウチなのかソトなのか。そこはウチでもありソトでもあった。どっちでもあってどっちでもない。見方・考え方によればウチ、見方、考え方によればソト。人によって、ウチとなったりソトとなったりする。ウチとソトの中間というときもあれば、ウチでもありソトでもあるときもある。あれもこれも、あれでもないこれでもないというと、優柔不断で分かりにくいと言われたりするが、決してそうではない。どっちでもないこと、どっちでもあることにも、意味がある。
AかBならば、選択肢は2つ。AかBかその中間かとなると、選択肢は3つとなる。AかBか、AでもないBでもない、そのまんなかでもありそうでもない、AとBとその融合・組み合わせとなると、選択肢は無限大になる。
コロナで、ライフとワークがまじりあいだしている。ライフとワークがそれぞれ拡張して、融合して新たなものが生まれつつある。このように、AでもないBでもない、AでもありBでもあるという「融合・まじりあい・ボーダレス」化が進むことになると、本来日本人が持っていた思考・行動様式が再起動し、豊かな文化が取り戻される可能性が一方ある。
3. 「所詮…」と思ってしまう日本人
融合力に長けている日本人だが、既成概念にとらわれる人が多い。たとえばスマホが登場した時に、日本はとんちんかんな対応をした。ガラケーが一世風靡していた時代に幅を利かせていた経営者たちは、スマホで新たな可能性を切り拓く可能性があることが判っていても、“所詮スマホだろう。所詮ゲーム用だろう。所詮遊び用だろう”という発想が根本にあって、社会に広範囲に影響を与える新たなモノとしてスマホを受け入れなかった。その日本の結果がどうなったかは現代人はわかる。
発想の入り口で、所詮スマホだろう、所詮マンガだろう、所詮遊びだろうと考える。それが評判になり、多くの人に受け入れられても、心の底で過去の事柄や、その人・企業における文化・常識・成功体験にとらわれ、「所詮…」と思うから、本気で変われない、新たなモノが生めない。
ここにも、白か黒か、AかBかの「二項対立」にとらわれてしまう現代日本人の思考法がでてくる。白か黒かではない、白でもあり黒でもあるかもしれない、白でもない黒でもないかもしれないと考える力が日本の伝統色を生んだ、豊かな色彩感覚を育んだ。
これを簡単に感性だとか五感だとかアートだとか文化だとか言ってはいけない。二項対立の思考法が、日本の四百数十色あるといわれる伝統色を感じられなくしているのかもしれない。古代から時間をかけて日本がつくりつづけてきた色の違い、色の広がりがそぎおとされて、たとえばいろいろな「青色」がひとつの「青色」にくくられようとしているかもしれない。そんなの、色屋さんや印刷会社の人がわかっていたらいいじゃないかと考えるようになったら、日本人の感性・思考力・編集力がおち、日本の文化はさびれてしまう。