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現実のインフレとしてのメタバース(あるいは「異化の無効化」とアートの再構成)

(1)アートとは異化である(と個人的に思う)

アートって、いろんなジャンルがありますよね。絵画や音楽のような伝統的なアートから、比較的新しい写真、さらには映画もアート文脈で語られます。それぞれのアートは特有の歴史を持ち、磨き抜かれた専門の知識があり、そして出力するための違う媒体を使うので、アートと一括りに言っても一見共通項はほとんど見出せません。でも一つ、「アートとは何をやっているのか?」という問いに対する自分の見解を書くとするならば、次のように考えています。

アートとは、現実を異化する行為である

もちろん異論があることは承知しております。例えば最古の芸術論の一つはアリストテレスの模倣論があると思います。芸術とは、最も洗練された現実の模倣であるという、あれですね。あるいはバフチンのように、異化論自体に対する疑義を呈した理論家もいます。他にもさまざまな芸術論があるんですが、個人的に19世紀のロシアフォルマリストであるシクロフスキーが唱えた、この「異化効果」は、アートの作用をよく言い表していると考えています。例によって、Wikiから引用しましょう。

異化(いか、 ロシア語: остранение, ostranenie[1])は、慣れ親しんだ日常的な事物を奇異で非日常的なものとして表現するための手法。知覚の「自動化」を避けるためのものである。ソ連の文学理論家であるヴィクトル・シクロフスキーによって概念化された。これまでに「異常化」や「脱自動化」などの訳語が考えられてきた[2]。(下記リンク先より引用)

「知覚の自動化」というのがなかなか難しいですが、つまり「世界を当たり前のものとしてみてしまう鈍感な状態」です。これを刺激して、世界を新鮮な目で見るようにするための手続きが「異化効果」です。

例えば種田山頭火の俳句を一つ見てみますね。

「まつすぐな道でさみしい」

びっくりしますね。これでもう完璧に成立しちゃってる。ここに書かれているすべての言葉は、日常の言語で書かれています。「まつすぐ」も「道」も「さみしい」も、すべて我々が慣れ親しんだ日常の言葉です。でもこれが合わさって

「まつすぐな道でさみしい」

と表現されると、心の内側まで抉り取られるような衝撃と共に、心象風景が浮かび上がってきます。来ますよね?それはこの俳句が、「まつすぐな道」を「さみしい」と表現する、明らかに通常ではない言語の接続によって、我々が知っている「まっすぐな道」を異化しているからです。そしてその異化効果によって、この道がただの道ではなく、なんらかの隠喩であることを読み手に想起させます。おそらくはここまで歩いてきた人生の過程なのか、それともこれから歩いていく未来のことなのか。そのような想念を起こさせるような効果を、たった11文字で表現し得るからこそ、種田山頭火は偉大なんですね。

俳句専門の学者さんには怒られそうな説明ですが、芸術一般が目指すところは、認識が自動化して「当たり前」に世界を見てしまう我々の認知を揺り動かして、世界を見る目を再度新鮮なものにすることなんです。その瞬間を境に、作品や表現に接した人の世界認識が変わってしまうような体験を導き出すこと、それが(おそらく)芸術一般の目指すところです。

で、そんな「異化効果」を特に得意にしているジャンルがあるんです。何かわかりますでしょうか?もちろん、写真です。

(2)写真とは、畢竟、異化である

ブレッソンもキャパもドアノーも、あるいはブラッサイも森山大道もサルガドも、被写体も手法も何もかも違う写真家たちですが、彼らの写真が鮮烈で、世界を変えてきた理由はたった一つで、彼らがこの世に問うてきた写真を通じて、世界の見方が変わってきたからです。彼らは写真の持っている現実の異化効果を自由自在に操れたからこそ、写真の歴史を画してきたわけです。例えばブレッソンの「サンラザール駅裏」なんて、まさに現実の異化効果そのものだし、「夜のパリ」で有名なブラッサイ写真集の表紙なんて、お手本のような異化効果です。気になる人はぜひ検索してみてください。ハイライトとシャドウを巧みに組み合わせて、Sのカーブが強烈な構図を作っています。ただの道が、光と影、そして構図によって、現実が異化され意味が浮かび上がる。

ブレッソンやブラッサイの話の後に自分の写真を載せるのはなかなか勇気が入りますが、この写真も「異化効果」の例と考えてもいいでしょう。

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この場合、特に「普通はこんなふうに月は大きく見えない」と言う人間の一般的な思い込みを逆に利用することで、写真への注意を最大化しています。そしてこの岐阜城と月の写真がバズるたびに出る「合成写真疑惑」は、もれなくこの「普通はこんなふうに月は大きく見えない!」という人間の思い込みが強いからです。僕のツイートにもやっぱりいくつかそう言うコメントをいただきましたが、ツイッターでも書きましたが合成じゃないですよ。超望遠レンズを使った圧縮効果ですよ。

ちょっと話が脱線しました。異化の話に戻りましょう。写真が持つ異化の力を考えるとき、興味深いのは、伝統的に写真が、あらゆる芸術の中で最も「現実」を忠実に記録する媒体と考えられてきたことでした。でも逆にいうと、だからこそ「異化効果」が強烈に働くんです。月と岐阜城の写真は、まさにその例だと言えます。そこに写っている被写体が、いかに信じられないような見え方をしていたとしても、それが「現実」であるという前提をみんな受け入れているからこそ、その「現実からの跳躍の距離」が我々の認識を一新してくれる。「こんなふうに世界を見ることができたのか!」と。

(3)現実の「インフレ」

このような状況の中で、実は気になっているのが、僕らはもう異化できる現実を持ち得ないのかもしれない、ということなんです。それこそ僕がずっと書いてきた「SNS空間におけるあらゆる表現のコモディティ化」の問題の核心でもあるんですが、

今日はSNSのさらに向こう側を見てみると、この「異化できる現実を持ち得ない」という感触は、さらに深まっていきそうな予感がしています。それがどこで起こるのかというと、メタバースですね。

メタバースは現在、恐ろしいほどの過熱感を持って、あたかも「約束された土地」へと向かう民族大移動のように、アメリカのテック企業が血眼になって争奪戦をしているところですが、物事を極めて単純に整理すると、メタバースを通じて企業が目指しているのは、利益を生み出す範囲の拡張です。これまでは各企業は、そのそれぞれの特性に応じて、利益を生み出す場所を棲み分けてきました。例えば車を売る企業は、20歳から70歳くらいまでのある程度購買力のある人に向けての移動ツールを提供して利益を上げてきました。あるいは、アイスクリームを売る企業は、全年代の休憩時間のお供を比較的安価に提供してきたわけです。オムツ企業は生まれてきた子供たちが2歳くらいになるまでの短期決戦ですし、電力やガスの会社は、それほど高額な料金を取らない代わりに、人生通して各人がお金を使う相手です。

こんなふうに、多様な利益の形と、多様な利益収集のスパンがあったんですが、メタバースはその上流と下流を一気に押さえることができます。車もアイスもオムツも服も歌も映像も車も電気も何もかも、全部を一企業が押さえることができる

もちろん、僕らは現実世界で最低限のインフラ的なお金は、伝統的な会社に払いつづけることになります。僕らは肉体を捨てて生きることは、今のところできないわけですから。でももしメタバースで多くの時間を使うという未来が本当に来たら、僕らはその中で「人生」を生きなくてはいけない。そして生きるためには、なんらかの消費が必要になってくる。その消費は、すべて「データ」です。そしてそのデータをあらゆる形でメタバース内で売買することができる。

「そんなところにお金を使うなんて馬鹿だ」と思いますか?そうでもないですよ、みんなゲームの世界でアバターの服を買ったり、スキンを買ったりするじゃないですか。好きなもの、必要なものであれば、それがデータであっても、人は全然お金を使っちゃう。そしてその規模が、これまでのゲーム世界での消費とは比較にならないほど、メタバースの利益の範囲は広いです。だってそこは「新世界」なんだから

そしてメタバースは、作ろうと思えば幾つでもレイヤーを重ねて新しい世界を作ることができる。利益を生み出す構造は無限に拡張可能です。だからこそ、アメリカのテック企業は今血眼になってメタバースを獲ろうと躍起になってる。まさに世界をかけたアルマゲドン的な戦いが始まってる最中なんですね。

で、そういうメタバース。今「新世界」って書きました。そして「幾つでもレイヤーを重ねて新しい世界を作ることができる」と書きました。もしメタバースが我々の生きる現実になった時、その現実は、原理上、天井なしで広がっていきます。それは空間的にも、質的にも。電子空間上で生きる世界が本当に訪れた時、その世界は今飛行機で世界を飛び回るよりも、より自由に、より高速に、それこそ宇宙の果てまでも一瞬に旅行ができるようになります。そして描かれる世界も、あらゆる形で表現可能です。人間やAIが作り出したいと思った「現実」は、全て作り出すことができる世界が来る。そのような世界が本当に訪れた時、では「現実の異化」を旨として人間の知覚を刺激してきたアートとは、一体どのような役割を果たすことができるのでしょう?というより、現実がそこまでインフレした時、「異化するための現実」なんて、存在し得るのでしょうか?

日経の記事でも、いよいよメタバースビジネスが動き出すことが報じられてきています。つまり、これはもう我々が近々に直面する現実なんですね。記事の中でこんな文章がありました。引用します。

この動きは、単なるアイテム課金ビジネスでは終わらない模様だ。ファッションアイテムなどが、仮想空間内で高値転売されるのを期待して、ディセントラランドはブロックチェーン技術を用いた独自通貨を発行している。そこでは仮想空間上の土地の登記や転売までできる。デジタルアート作品のオークションも実現する動きがある。

現実を模倣しつつ、現実ではあり得ない速度で拡張していくメタバース空間においては、「現実」の意味が変容するでしょう。さらにはその「現実」を異化することで成立するアートもまた、その意味を問われることになります。メタバースにおいては、そもそもの「現実」こそが、いつだって変容可能で、異化可能な世界になり得るからです。

おそらくこのような了解なしに、例えばビジネスにせよアートにせよ、「現実世界のものを持ち出してスケールする」という発想では、その試みは上手くいかない可能性が高いのではないかと予想しています。そうではなく、おそらくメタバースで要求されるのは、人類が意識を持って以降享受してきた「現実」という概念自体を解体して再構成するための発想なんです。そして僕ら、クリエイターに求められるのは、その再構成の過程の中で、新たな形で「世界を異化すること」の意味を生み出すことだろうと思うんですね。



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別所隆弘
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