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国境で救いの手を差し伸べあう。

人種差別がまったくない世の中が実現するかどうか。認めるのは哀しいですが、それは心もとないです。できることは、人種差別を助長するような発言や行動をなくす。あるいは、減らすことではないかと思います。

そんなことを以下の記事を読みながら考えました。

ウクライナから脱出する人々が国境で人種差別を受けている現実ーウクライナ人の出国が優先され、ウクライナに移民として生活していた人たちは後回しにされるーの背景をどう解釈するのが良いのか?あるいは、この記事にどのような情報や記述があれば、人種差別の助長を回避できるだろうか、と思ったのです。

というのも、上記のような情報に付随して、2015年、欧州に辿りついた100万以上の難民・移民危機と比べる、ソーシャルメディア上の次の類のコメントを散見するのです。

「2015年、東欧諸国は、難民受け入れに消極的だった。それなのに今回は積極的だ。結局、金髪の人たちならば積極的に受け入れるのか?」

今、リアルに国境で生じている人種差別が事実として、その背景説明に上記のコメントは相応しいのか?逆に人種差別を助長することになるのでは?と感じました。

(ウクライナ人以外には二重の壁があり、脱出の手前での選別、脱出先での差別があると記事は報じています。ただ、本稿を書く動機は上記コメントを起点としています)

とするならば、2015年、西欧と東欧で難民受け入れに違った態度であった理由を探っておくのが適切です。あの時、西欧は人種差別が少なく、東欧に厳然と人種差別があったわけではないでしょう

2015年の難民流入は、アフリカと中東の複数の紛争や経済的苦境からの脱出を動機とし、それが同時に生じたため、一時的な受け入れで目の前の問題解決を図るとの構図が描きにくかった。それが事態を複雑にさせました。

人口がはっきりしている一か国内の紛争によって生じたのではありません。難民の規模(最悪の数字)が読めない状況で受け入れを考える必要があったわけです。当然、受け入れる国も、先が読めないところで対策を練るので、各国の意見の乖離は広がります。

次に、難民・移民は植民地時代の旧宗主国と旧植民地の関係にも絡みます。第二次世界大戦後、数々の国が独立していきます。しかしながら、それは植民地時代を「終わったことにした」と旧宗主国側が演出せざるをえない事情を含んでおり、政治的、経済的、文化的な上下関係は引き続き存在してきたと言ってよいでしょう。

これが旧植民地の移民を旧宗主国が受け入れるとの政策にも反映されます。旧宗主国が労働力の供給源として旧植民地を考えるだけでなく、上下関係をつくったことへの罪滅ぼしとの性格もあります。英国のジャーナリスト、ダグラス・マレーは『西洋の自死』のなかで、東欧諸国が難民危機への対応が消極的であった理由を次のように述べています。

これら東欧の国々は、その歴史の大半を通じて、西欧の国々と同じ井戸の水を飲んできた。しかし彼らは明らかに異なる態度を身に着けている。おそらく東欧は西欧のような罪悪感を抱えていないか、またはそれに染まっておらず、世界のすべての過ちが自分たちのせいかもしれないなどとは考えなかったのだろう

あるいは西欧の国々を苦しめた倦怠感や疲労感にはさらされなかったのだろう。戦後の大量移民を経験しなかったために(多くの別の経験をしたわけだが)、西欧が想像したり取り戻したりすることに苦労している国民的な一体感を保ち続けていたのかもしれない。また西欧の状況を見て、自国では同じことを起こすまいと決めたのかもしれない。

ウクライナの問題は、他の東欧諸国への脅威となっています。旧ソ連に支配された社会を徹底的に拒否したいー自由であることを最優先したいー人たちは、何としてもあの苦渋の二の舞は避けたいと願います。1990年代に生まれ、旧ソ連時代を知らない世代は、そこまでのアレルギーがないと言われてきました。ですが、先月からの近隣の展開で年上の経験の辛さをじょじょに分かり始めたでしょう。

次はモルドバ、ジョージア、バルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)がロシアの標的になるとなれば、東欧諸国間で「お互いに助け合う実績をつくる」ことを何よりも重視するはずです。

ウクライナと国境を接するポーランドやハンガリーの人々が、ウクライナから来る人々に手を差し伸べるのは、お隣同士で安全地帯をつくるに必須の行為です。ポーランドやハンガリーの人々は「明日は我が身」との危機感をもつがゆえに、今、ウクライナからの人々を可能な限り受け入れるのです。そして、この危機感や心情は、西欧諸国においても、程度の差こそあれ、共有しているとみて良いです。

1990年夏、東西ドイツの統一直前、ハンガリー、旧チェコスロバキア、東ドイツとクルマで走り回りました。これらの地域に共通した風景として、かなりの山のなかでも、それぞれの家には衛星テレビの屋外アンテナが設置されていました。当時、西欧ではあそこまでアンテナが設置されていなかったので、情報をとるのがサバイバルである環境に生きてきたのだと実感したものです。

お互いの協力関係の下地はあるのでしょう。そう期待したいです。

写真©Ken Anzai



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