敗戦の月の終わりに、戦争と教育について考える
8月が終わろうとしている。
8月は言うまでもなく、日本に原爆が落ち太平洋戦争の負けが決まった月である。それだけでなく、今のコロナの状況に関連して、(太平洋)戦争中の日本はこうであったのだろうか、と思わされることが日々起きており、戦時の状況を追体験するような気持ちで過ごした月だった。
例えば、情報(ニュース)の取り扱いについて。「大本営発表」といえば都合の悪い情報を隠し、偽りのニュースを流すことの代名詞になっているが、今回の新型コロナウイルスのワクチンに異物が購入しているという情報がありながら公開されなかったり、ラムダ株に感染している五輪関係者が日本に入国していたにも関わらずその公表が遅れたということは、まさにこうした大本営発表を彷彿とさせるものであった。
これの何が問題かといえば、正しい情報に基づいて、それぞれの人が自分なりに判断をするための材料が失われるということにある。
また、この状況の中で様々な情報や意見が交錯する中、誰がリーダーをやっても誰からも批判されない、完璧な施策はほぼ不可能といって良いだろう。ただし、そうした中でも各自治体の裁量に任された住民のワクチン接種について、自治体によって大きな差が生まれたことは否めない。例えば首都圏や関西圏であれば、自衛隊の運営による大規模ワクチン接種会場が設けられ、接種券があれば地元自治体の接種の順番を待たなくても予約さえ取れれば接種できる状況にあった。すでに自衛隊会場の新規接種受付は終了してしまったのだが、首都圏や関西圏の自治体でも接種券の発送が遅れたり、中にはまだ届いていない人たちがいる自治体もあるようで、こうした人たちには早期接種の機会が自治体によって遮断されたのだということが出来る。こうして自治体のリーダーの資質によって住民の生命や健康が保たれる可能性に差がついたことも、それを明確に見ることになったのも、この時期ならではの経験だったと思う。
そして、現場の頑張りが全体を支えているということもまた、今回のワクチン接種の状況で明らかになった。5~6月の時点では1日30万回程度しか接種できていなかったが、多い時には1日に150万回接種と、目標とされた100万回を大幅に上回る接種が実現した。これは医療関係者や自治体の関係者などを中心に、多くの市井の人々が時間を割いて取り組んだことの成果だ。特に医療関係者においてはワクチン接種だけでなく感染者や広く傷病者の治療の対応もある中、こうした迅速な接種の対応が進められたことには心から感謝したい。
一方で、こうした状況の中、残念ながら多くの人の感染拡大防止の努力を無にするだけでなく、自分と周囲を危険に巻き込む行動をとる人もいる。マスクをつけずに店に入ってくるといった個別のものから、大規模な音楽フェスで多くの人が密集して飲食しながら音楽を楽しむ状況を主催者が放置するなど、残念な事象が起きたのもまた8月であった。こうした人たちに、果たしてどれだけ正確に自分や組織の行動を判断する材料としての情報が行きわたっていたのか。そして行きわたっていたとして、その判断をするための教育を日本はこれまでしてきたのか。戦争ではないのだが今は「緊急事態」であり、情報の取得と取捨選択、そしてそれに基づいて的確に判断することが、個々の健康と、ときに生命を左右する状況にあることを、改めて思う。
そして、戦争と教育の絡みでは、8月いっぱいをもってアフガニスタンから米軍が撤収し今後のアフガニスタンの政治情勢が再び不安定なものとなってしまっている。
もちろんいつまでも他国の軍隊が駐留することによって国の体制や治安が維持される状況は望ましいものではなく、いつかは撤収することが分かっていたことではある。今後政権を握ると思われるタリバンに関しては、過去に宗教的に厳密な統制が取られ、例えば文化財と考えられるものを偶像崇拝にあたるとして破壊したり、子供の教育、特に女子の教育を男子と差をつける(差別する)といった問題が起きていた。
これに反対する立場は、西欧的あるいはキリスト教的な価値観による判断であって、それが正しいものと言えるかどうかは非常に難しい。一方で、戦争によって子供たちが育つ環境が破壊され十分なものではなくなったことについてはどの立場に立つとしても問題であると個人的には思っていた。このためアフガニスタンに関する写真展の開催に協力しチャリティーの募金を募ってアフガニスタンの学校の再建に協力したのが15年以上前のことである。そこでどのような教育を子供たちに施すかは、アフガニスタンの国の人々が決めるべきことであると私は思うけれど、少なくても教育の場があることの重要性はおそらく普遍的なものであろうと思う。
もうひとつ、戦争と子供の教育に関して、非常に考えさせられる映画「沈黙のレジスタンス」を最近観た。冒頭の写真は、この映画の1シーンだ(配給元から許可を得てお借りした)。
これはナチスに占領されたフランスのレジスタンス活動を取り上げた映画であるが、ひょんなきっかけからユダヤ人の孤児たちを匿い逃がして生き延びさせようとする主人公のマルセル・マルソーと、ユダヤ人を子供たち含めて逃すまいとするナチスの親衛隊中尉が、中尉の子供の教育に関して言葉を交わすシーンがある。子供たちがユダヤ人であるとばれないか、手に汗を握るシーンでの会話なのだが、このナチスの中尉もユダヤ人の子供たちを守ろうとする主人公も、立場は違うが、どちらも子供の未来をどのようにより良いものに出来るかと考えて行動している点では共通しているのだ。しかし、その二人が敵同士であるというところに、何とも言えないやるせない思いがする。なにより、この映画がパントマイマーとして著名なマルセル・マルソーの若き日の実体験に基づく物語であるところが重たいのだが、大切なことが幾重にも織り込まれている深い作品だった。
今回の新型コロナウイルスにまつわる社会状況やワクチンの接種の是非に関する考え方の違いを見ても、一人一人がどのような情報を得てそれに対してどのように判断をするかが問われ、その判断の結果によって、あるいは判断を怠ったことで、多くの人が感染しまたそうした人が身近にいることでウイルスをもらってしまっている人が出ている、ということだと理解している。
判断の結果は人それぞれであり、多様であることが種としての人間が生き延びるために大切なことで、その多様性は尊重されなければならないことだと思う。すべての人が同じ判断をすることは、種の生存にとってゼロかイチかの選択となり、危険な賭けになる。多様な選択をする個体がいて、その一部の選択が結果的に生存につながることで、環境の変化に耐えてきたのが自然界の摂理ということだろう。
ただその多様な判断をするための基礎となる正確な情報が提供され、その正確な情報を取得することができ、そしてその正確な情報に基づいて自分なりに適切に判断するための教育がされることは、考え方の違いや人種や時代・文化を超えて重要なことであるはずだ。
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