なりたいとなりたくない:未来を描く
目線と進路
2011年、前職にてiPhoneアプリを量産するプラットフォーム事業から、『ゴルフ脳』(解説:児玉光雄 書き手:布施裕子)というスポーツ心理学の電子書籍が発売されました。その中で、「フェアウェイのみを意識することが大切」ということが書かれていました。「ラフに打ち込みたくない」とか「池に入れたくない」「バンカーが気になる」など、なりたくない状況を意識から追い出すことが大切なのだ、と。
いまから三十年ほど前、自動車の運転免許取得のために通った教習所にて、「ガードレールにぶつかりたくないと、ガードレールをみていると、そこちらに車体が近づいていく」「目線の方向に車体は進むのだから、進みたい方向を見ることが大切」「曲がり角を見るのではなく、曲がり角の先を見る意識が大切」と、同じように習ったことを覚えています。
これは、未来を考える際にも通ずることのように思えます。とくに、この「曲がり角を見るのではなく、曲がり角の先を見る意識」というところが、とても重要だと思うのです。
危機を見つめる本能
危険なことに意識が向くのは、当然のことです。生き抜く上での障壁となることに敏感な者が、環境適応によって生き延びてきたと考えれば、心身に害となりそうなことに注意を注いでしまうのは、ごく自然なことです。
人の注目を集めたいときに、こうした仕組みを活用して、ネガティブな情報を強調したり、危機感を煽ったりすることが、コミュニケーションの手法として長く活用されてきました。
願いを見つめる意志
一方で、「こうなりたい」という願いのような意思は、ついついみてしまう「なりたくない未来」から視線を逸らす、心の力に支えられたものかもしれません。
未来を描く上で、とても大切になるのは、この意志なのだと思うのです。
「こうなりたくない」という未来を、事細かに描き出したとすると、そこで描かれる未来像のリアリティに、実現可能性の高さを感じてしまう。それが、いわゆる「予言の自己成就」を引き起こしてしまう。
可能性としてのひとつに過ぎない未来像であっても、詳細に描かれることによって、あたかも定められた行末のように人の心に根を張り、その方向に向かって行動を促す作用があるのだと思います。
そこに対抗するには、合理的に描かれた意志としての未来像が必要なのだと思います。
意思と想像
想像することは、想い描くこと。その手がかり足がかりとなるものに、テクノロジーフィクションがあるのだと思うのです。現在と地続きの、ちょうど曲がり角にあたる距離感のものが、現在研究段階にある技術を用いた5〜10年後の未来です。これも、技術ドリブンではなく、その技術を用いたときに、どのような生活が実現できたら幸せなのか、という自分自身の生活の幸福を起点に考えることが大切です。
カンブリアサイクルは、「みえる」「わかる」「できる」「かわる」です。センサーによって可視化されたデータは、専門家やAIなどによって解析されます。その結果にもとづき、様々な介入が設計され、実際の生活が変化していきます。つまり、データは時計回りで流通します。
しかし、実際にこのサービス全体を設計する際に、センサーやデータを起点に時計回りで設計しようとすると、頓挫します。実際、センサーメーカーなどが新規事業として検討を始めると、「みえる」「わかる」は、単純にデータの取得と解析として連携の形が描け、プロトタイプを作ることが可能なのですが、介入の設計で頓挫することがとても多いのです。
テクノロジードリブンで描く未来像が、本質的な目的を見失ってしまうからかもしれません。カンブリアナイト参加者は、このカンブリアサイクルを用いて未来像を描くならば、反時計回りに考えることが大切だという共通認識を持っています
「かわりたい形」がまずあって、そのためには「どのような介入があるか」を考え、その介入をするためには「どのようなことがわかればよいのか」を設定し、それをわかるためには「どんなデータが必要か」を求めていきます。センサーというテクノロジーは、最後に選べば良い、となるわけです。
5〜10年先の曲がり角にあたるくらいの時間軸で、なりたい未来を思い描いてみるところから始めてみましょう。このくらいだと、技術的にも見えていて、現在と地続きの世界の中で、願いを込めた状態を描きやすいと思います。そこを足場にして、20年先、30年先と未来への距離感をストレッチしていくと面白いかもしれません。