「よく遊びよく学ぶ」人生が当たり前に
コロナ危機の巣ごもりで、困ることの一つが、運動不足。緊急事態宣言が出された4月初め、ジムはしばらく閉るし、マスクオンで走るのも大変そう。応急措置として、何年も毎週ジムのクラスへ通っていたヨガを、YouTubeで代替することにした。
同僚の強いお薦めによるヨガ講師はなかなか爽やかだし、フォロワーが多いのも頷ける充実の内容だ。何より、仕事の合間に30分でも差し込める気軽さがありがたい。気が付けば、ジムが再開した今も、毎日画面を横目に「英雄のポーズ」を真似している。
ジムのクラスとは異なり、このインストラクターと私は、おそらく一生顔を合わせることはないだろう。しかし、彼から受ける恩恵は絶大だ。長引く自粛の中でかろうじて正気を保てるのも、ひとえにYouTubeヨガと、どこまでもマイペースな飼い猫たちのおかげと言える。
このように、オンライン接続とコンテンツさえあれば、「時間いつでも、空間どこでも」学べることを、パンデミックをきっかけとして、まざまざと体験したひとは多いのではないか?
リモート・エブリシングとは、時間と空間を共有しなくても体験を共有できることを意味する。この傾向が続けば、20年後には、人生の過ごし方そのものが大きく変わっていることだろう。
技術的にリモート体験は可能だったとは言え、プレ・コロナの人生モデルは、大きく時間と空間に縛られていた。「同級生と机を並べる」教育機関を卒業したら、長く仕事中心、都会のサラリーマンであれば「オフィスで同僚と顔を合わせる」生活が続き、退職して初めて趣味に没頭できる、というように。
しかし、20年後にこの縛りは過去の遺物だろう。例えば、「学校」は若い時にのみ、ある一定の場所に縛られるものではなく、オンラインヨガのように、生涯気軽に続けられるものになる。「趣味」もゴールデンエイジを待たず、堂々と生活の中枢を占める。
特に、教育に起こる非連続な変化を考えてみよう。同級生や教師と一定の時間と空間を共有することを前提とする物理的な「学校」は、私たちが慣れ親しんだものだ。しかし、このモデルは教育を受ける側にとって、犠牲が大きい。ゆえに、普通は20代前半まで集中して、はい終わり、となってしまう。
ところが、学びが時間からも空間からも自由になったら、どうだろう?ノーベル賞級有名教授の講義を誰でも視聴できる。または大人が「中学校の数学」をもう一度マイペースで数年かけて学び直したいというニーズも大ありだ。興味さえあれば、学び続けるハードルは限りなく低い。
一方、提供側も時間と空間に縛られないので、課目に応じてベストな講師陣を取りそろえた豪華な「なんでも学校」プラットフォームがオンラインで出来ているかもしれない。20年後、そのシラバスはきっと無限に広がっていることだろう。最近COMEMOでも紹介されているが、MasterClassというサービスはこの原型に思われる。
既に、ウィキペディアは、興味のあることをさくっと調べるのに最適だ。例えば、私は昨夜ジャズピアニストのエロル・ガーナーを検索した。知ったかぶりができるくらいの知識は2分で手に入る。しかし、体系立ててジャズの歴史をたどり、流れの中で彼の位置付けを理解できればもっと嬉しい。きっと、20年後であれば、この「なんでも学校」の戸を叩くことだろう。
もちろん、本来、教育は決して一方通行ではなく、生徒同士の切磋琢磨や、生徒から講師への質問により質が高まるものだ。時間も空間も共有しないオンラインスクールでは、この相互作用効果が薄まってしまう。だから、大きな犠牲を払っても、時間と空間を共有してクラシカルに学びたいというニーズは消えないと思う。しかし、特に社会人向けビジネススクールなどは、大半がオンラインに駆逐されて、真に差別化されたエリート校だけが、今に似た教室型で生き残るのではないか?
さて、時間と空間の縛りは、窮屈に感じられる一方、一日の過ごし方から大きくは人生の章立てまで、枠組みを提供してくれていた。学校が終われば仕事、仕事が終われば余生、というように。窮屈の裏腹に、階段を上る安定感があった。
しかし、これから境界線は限りなくあいまいになる。仕事をしながら学び続け、また、元来ならリタイア後にお預けだった田舎暮らしを現役時代に始め、地方貢献の活動をすることも可能になる。意欲さえあれば、二足も三足もわらじを履くことが普通にできるのだ。
この自由は、しかし、「誰も決めてくれない」不安定さももたらすだろう。私たちひとりひとりに与えられた有限の時間をどう使うのか?自分に問い直す作業が必要だ。
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