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批判のリテラシー 〜don't defame, criticize!(中傷せずに、批判しよう)

お疲れさまです。uni'que若宮です。

今日は「批判」ということについて書きたいと思います。


先日、とても痛ましいことが起こり、SNSでの誹謗中傷への対策が議論されています。

僕自身は「中傷」はやはりしっかり取り締まるべきだと思います。特に「匿名での中傷」は卑怯な暴力です。これを野放しにすると、情報発信自体が怖くなり、場自体を殺すことにもなりますからもう少ししっかり取り締まるべきでしょう。

(また、いまでも起こっていることですが、何気ない「つぶやき」が有名人のRTなどで急激に拡散され、文脈を誤解されたまま石がたくさん飛んでくることもあります。こうなると発言するのが怖くなってしまうので、twitterはツイート時にツイート単位でリプライやリツイートを閉じるような機能も検討すべきかもしれません)

しかし「ルール整備」に対しても賛成意見ばかりではないようです。一部では政府主導でルールをつくると「検閲」に繋がり、「批判」も封じ込められるのでは、という拒否反応も出ています。しかしこの時、「中傷」と「批判」をいっしょくたにしてしまってはだめで、ちがいをしっかり認識しておかないと不毛な議論になる気がしています。


「批判」と「中傷」

「批判」と「中傷」は全く異なるものです。

まず、「批判」というのは辞書による

ひ‐はん【批判】 [名](スル)
1 物事に検討を加えて、判定・評価すること。「事の適否を批判する」「批判力を養う」
2 人の言動・仕事などの誤りや欠点を指摘し、正すべきであるとして論じること。「周囲の批判を受ける」「政府を批判する」
3 哲学で、認識・学説の基盤を原理的に研究し、その成立する条件などを明らかにすること

とあります。「批判」とは物事を「検討」する、そして「正す」ための言説です。(哲学的には物事をgivenとせずに「そもそも」を捉え直すような、根本的な思考をさします)。


一方、「中傷」はというと、

ちゅう‐しょう【中傷】 [名](スル)
根拠のないことを言いふらして、他人の名誉を傷つけること。「ライバルを中傷して蹴 (け) 落とす」「中傷記事」

こちらは「傷つける」ことが主眼です。

英語でいうと「defame」。「fame名誉」に打ち消しや離す意のある「de」がついていて、よく似た言葉でいうと「名誉毀損」というのがあります。これ、嘘を言うのはだめだけど、「事実」なら言いふらしていい、と勘違いしているひとがいるのですが、刑法230条1項によると「公然と事実を摘示し、人の名誉を毀損」することが構成要件であり、内容の真偽を問わず「名誉毀損」は成立します。

要は「ほんとだからいい」とかじゃなく相手を傷つけようとしてやったらだめだということです。


まとめると「批判」は「良くする」ために行うもので、「中傷」は「悪くする」ために行う行為なので、まったくの真逆なのです。


「批判を受ける側」のリテラシー

ここまでみたように、「批判」というのは「良くする」ために行われます。ではなにを「良くする」のでしょうか?

もう少し「批判」について考えてみましょう。定義を注意深く読むと気づくことは、「物事に検討を加え」「言動・仕事などの誤りや欠点を指摘し」とあるように、目的語は「コト」であり人ではないのです。

「批判」というのは人に対してのものに思われがちですが、実は改善すべきは「コト」なのです。「罪を憎んで人を憎まず」というのにも少し似ていますが、「誰か」を狙うのではなく、「コト」の改善を目指して、批判する側も批判を受ける側も協力することが大事なのです。


せっかくよい「批判」があっても、それを受けた側が「コト」を良くするために協力しなければ「批判」の効果が出ません。

たとえば、某国会とかでこういう答弁をよく聞くわけですが、

「その時点においては適切な判断をしたと考えている」
含蓄に富む官僚的答弁である。まず、今となっては判断は間違っていたと言わざるを得ないというニュアンスがあるにもかかわらず、その事実は認めていない。(中略)
筆者も重大事をし損じたときに「あのときはこの選択肢が最善だったんだ」と、自己を正当化することがある。だがやはり後講釈のたぐいだ。判断や行動を間違えた事実は消せない。


「自己正当化」もまた「批判」の精神とは真逆のものです。


これは「批判を受ける側のリテラシー」としては最悪のものです。なぜなら「コト」を改善するのを放棄し、改善機会を損失させ、なんらの生産性もうまないからです。特に「国会」という「議論の場」においてはむしろ「批判」精神こそ重要ですから、それを毀損する行為や言説は「職務放棄」と言われても仕方がないほどの裏切りだとおもいます。

「批判を受ける側のリテラシー」としては、自己防衛のためにそれをはねのけたり流したりせずに「コト」の改善に協力する姿勢が必要です。


「批判する側」のリテラシー

「批判」に対してこのように「ないがしろ」の態度を取られると、徒労と不毛感とともに、怒りが湧いてきます。(僕自身経験がありますが)そうすると残念なことに、多くの人がここで「批判」を逸脱してしまいます。

「批判」の顔を借りながら、実態は「コト」ではなく「人」を目的語とし、「改善」ではなく「貶める」言説へと変質してしまうのです。「〇〇は馬鹿」とか「△△は辞めろ」果てには「死ね」などという。しかし、前述のようにそれはもはや「批判」ではなく「中傷」です。


SNS上での政治に関するやり取りをみていると、このような「批判から中傷への変質」があまりに多く、とても残念な気持ちになります。最初にみたように「あいつを落としてやろう」というベクトルの「中傷」では、対立からいずれただの石の投げ合いになってしまい、本来の改善の機会を壊してしまいます。

ですから、「批判する側のリテラシー」の1つ目の大事なポイントは、

「改善しよう!」というベクトルの言説を心がけ、「貶めよう!」という文面になってしまったら送信ボタンを押さずに破棄する

ということです。


そしてもう一つ大事なポイントがあります。それは、

「批判」は、自己も含んだ批判でなければならない

ということです。さきほど「批判」についてみたように、「批判」の目的は、それをきっかけにした「コト」の「改善」であり、そのためには互いの協力が必要です。「批判」というのは原理的に、相手だけが直せばいいものではないのです。

社会構造や政治はつながっていますから、「主権者」として僕たちは責任を分有しています。自分はまったく立場を変えず「相手だけ直せ」というのは、実はさきほどの「自己正当化」そのものです。


なぜそうなってしまったのか、それを変えるために何ができるのか。以前こんな記事も書いたのですが、「批判」をした時、それをきっかけに自分自身についても見直してみましょう。


「批判」の相手は「敵」ではなく、コトの改善のための「同志」です。

「批判される側」だけではなく「批判する側」も一歩進むことが重要です。そして単なるお互いへの「歩み寄り」ではなく、ともに新しい方向にともに踏み出すこと。

そんな風に未来につながる「批判」がもっと増えたらいいな、と思います。



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