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コロナのあとは、コロナのまえではない

クリアファイルから、鉛筆書きの紙をとりだされた。“堺屋太一さんに、昔、これからどうなるんやろ?と訊いて、喫茶店で書いてもろたグラフやけど、亡くなった堺屋さんやったら、このコロナ、どないなるといいはるんやろな。池ちゃん、どない思う?”と、堺屋さんの友人だった大阪船場の経営者。

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堺屋太一さんのメモは、技術革新からの「コンドラチェフの波」(50~60年周期)に、設備投資からの「ジュグラーの波」(10年周期)、1990年が日本史のなかでの頂点、そのあと“人口減だから駄目だ”と書かれ、2010年がボトムで、次のピークの2050年に向けてのゆるやかな昇り曲線という手書きのグラフだった。もうひとつの紙は、1990年から2020年の30年間の景気動向のグラフで、2020年には、新型コロナウィルスではないものの、「食糧危機?」と書かれていることに、未来予測者 堺屋太一さんの面目躍如たるものを感じる。

10年前の2010年、翌年の東日本大震災の頃に、日本社会は「リセット」していて10年後の新型コロナウィルスによって、私たちはそのことを突きつけてられているのではないか。
失われた20年(1993~2013)、2008年のリーマンショック・金融危機、2011年の東日本大震災以降、日本の様々な社会・産業・経済分野での「適合不全」を顕在化させ、古い社会システムと新しい社会システムが“入れ子”となり、それぞれが併存しながら、流されてきたのではないだろうか。

旧と新の“入れ子”とはなにか。
人口増加型・約束型社会の残像・成功体験に拘束される「古い」企業と、デジタル技術を活用して社会・ビジネスを変革させた「新しい」企業との入れ子。戦後75年・3世代を経て、価値観・市場観・仕事観などの世代間のギャップを広げ、過去と現在が切断されて、適合不全をおこしている。適合不全は世代間における「意味わからん訳わからん」としてあらわれ、お互いが理解しあえなくなった。それはなぜか。物事を見たり聴いたりして「解釈」するという基本的プラットフォームが崩れ、共有できなくなったことにもある。

そもそも日本はなぜ変われなかったのか。
今までの”蓄積”があったから今までどおりでよかった、新たなことにチャレンジするには大量のエネルギーが必要なので、“今までどおりでなんとかなる”と導入や改革を先送りし、“見えないふり聴こえないふり知らないふり”をして、変わらなかった。それが新型コロナウィルスによって、「本当のこと、本当の姿」が浮きあがりつつある。

この30年、日本で、なにがおこっていたのか。
たとえば、昔、給料は現金を封筒に入れて渡された。それが昭和60年前後から銀行振込となった。現金で商売していたら、現金が足りなくなると、「視覚」的に見えた。振り込みやネットでやり取りするようになり、資金を動かさなくなり、それまでやっていた「商売」が見えなくなった。それが堺屋太一さんの言う“日本史上の頂点”となった1990年の頃だった。そのときに、変えなかった、変わらなかった。

デジタル技術革命によって、世界は一気に社会・ビジネスの基盤とルールを変えていったのに、日本はこれまでの成功体験からの慣性(イナーシア)が働き、変われなかった。“日本史上の頂点”から30年。多くの分野・領域で機能不全しているモノ・コト、構造的な流れに合わないモノ・コトを見限り見切れず、新たなモノ・コトに取り組んだり、変えていくことができなかった

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新型コロナウィルス感染拡大を報道するテレビニュースに違和感がある。
「クラスター・オーバーシュート・ロックダウン」という言葉が飛びかうが、よくわからない。「集団感染・感染爆発・都市封鎖」と補足されるが、海外の言葉をメインに語られるので、日本に置き換えられていないので、しっくりこない。

「専門家会議」にも、違和感がある。
あるテーマを検討するにあたり、そのテーマの専門家ばかりが集められ、そのメンバーたちで議論される。国や自治体だけでなく、会社も学校もスポーツ界などの団体の多くはそう。内輪どうしで議論し、内輪の言葉で「答え」を出す。事務局がつくったシナリオ・ストーリーにもとづき、専門家たちは台本を粛々と読みあうという“予定調和”が多い。台本に書かれたストーリー以外の発言をする人もいるが、それとて内輪の人たちの世界では“想定内”である。

だから内々の世界の議論では、「従来路線」を越えない。独創的なもの、画期的なものが出てこない。専門家以外の人、ちがった分野の人を入れて、これまでの世界とは異なった新たなアイディア・提案を導き出せればいいが、そうしない。今までとは異なるコトとこれまでのコトをまぜて、新たなコトを生みだせばいいが、そうしない。なぜなのか。事務局はめんどくさいから。

「不要不急」という言葉も飛びかう。
学校は休校、レジャー施設は休園、会社はテレワーク、“不要不急”の外出自粛要請といった新型コロナウィルス対策での「本質」はなにか。
本当に必要なことと必要でないことを峻別すること。大事なこととそうでないことを峻別し、残すべきことと捨てるべきことを峻別すること。峻別していくプロセスのなかから見えてくることは、“親と子とはなにか、家族とはなにか、会社とはなにか、働くこととはなにか、学ぶとはなにか、大切な人たちとすごすこととはなにか、地域とはなにか”ということを考えなおすこと、見つめなおすことが新型コロナウィルス問題に対峙している今こそ、大切ではないだろうか。今までの常識・前提条件を問いなおして、そもそもの「本質」を掘り起こすことが「再起動」の出発となる。

イタリアのファッションブランド企業のCEOが世界の社員にあてた胸を射るメッセージを聴いた。会社の本質が込められている

(前略)これは私たちにとって将来への見通しが利かない時間であります。いつ終息するのかを誰も、正確に確信することはできません。しかし、このウィルスが長くは続かないものであることを知っています。それを乗り超えられます。(中略)私が非常に感銘を受けたのは私たちのグローバルなファミリーの忍耐力です。わが社の価値観と使命に導かれ、私たちはお互い、お客さま、そしてコミュニティのために存在しつづけます。私たちは常に「普通を特別なものにする」ことをつづけます。
どうか身体に気をつけてすごしてください。嵐のなかにもかかわらず、皆さん一人一人の協力に感謝します。(後略)

新型コロナウィルスへの対処は大変であるが、朝の来ない夜はない。
大切なのは、新型コロナウィルスに対処しつつ、夜の間に、「次」に向けた準備をすること。アジア・欧米・世界で「都市封鎖」がされているなかで、コロナのあとに向けた準備がきっと進められているだろう。コロナのあとを、コロナのまえではない時代にしようと動いている。


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