「歴史あるものは高価」は神話?
「歴史あるものは高価である」と思われることが多いでしょう。
長い年数が経過し、かつ一定の評価を維持している。これが「歴史ある」の説明になっている場合が多いですが、ご存知のように、多くのものは時間の経過のなかで評価の浮き沈みがあります。
だから「歴史あるものは評価が安定している」とは言えないし、それが常に高価であるとは言えないのです。
そんな当たり前のことを今週、数々のインテリアデザインの会社や美術館を訪問し、つくづくと再認識しました。
殊に19世紀以前の家具や絵画を扱うアンティーク商品のイタリアにある倉庫のなかを巡りながら、値段が極めて低いのが気になったのです。
値段が低いのは今にはじまったことではなく、今世紀にはいり20世紀以降の家具や絵画のアンティークの方が値段が高いとの逆転現象が起こっています。極端な表現をすれば、「19世紀以前の家具と絵画でインテリアをデザインした方が安上がり」なのです。
需要の差といえばそれまでですが、それ以上のことを考えさせる素材だと感じています。
クラシック様式はそもそも「ラグジュアリー」だった
ミラノで毎年開催される家具の国際見本市、ミラノサローネは世界のインテリアの動向をみるに最適の機会です。ここで「ラグジュアリー」と称されるゾーンが2つあります。一つは20世紀以降の名の知れたデザイナーの手による家具を紹介する家具メーカーのゾーン。
もう一つが、クラシック様式に沿ったデザインを主体とする家具です。今世紀にはいり、これらの主要な顧客は新興経済圏であり、具体的にいえば、中東や中国の顧客がホテルや自邸のために、こうした様式のインテリアを選択してきました。
しかしながら、じょじょに欧州や米国はもとより、このような新興経済圏でもコンテポラリーなデザインへの需要が増しています。つまり、「ラグジュアリー」と称されるカテゴリーにおいてバランスが微妙に動いています。
今週、この市場を長く見てきているイタリアの複数のエキスパートも、このことを指摘していました。そうすると次のような18世紀の絵画も、一般の人の予想を大幅に下回る価格がつくし、家具も同様です。
今世紀のアート市場の急伸と呼応している?
アート市場が今世紀にはいり大きく伸び、それがこの数年、天井を突いた感があることは、『新・ラグジュアリー 文化が生み出す経済 10の講義』でも紹介しています。
そのなかで国際市場を大きく左右する金額の作品とは、近代以前の巨匠や近代以降の誰もが知るアーティストの手によるものですが、特に前者のマエストロの作品の多くは、有名コレクターや公共の美術館に入っているため市場にあまり出て来なくなっています。
とすると現在生存中の作家の作品への需要があがります。同時に、コンテンポラリーアートは近代以前ほどには美術史の知識を要求されない傾向にあるため、語る主役が美術評論家だけでなく、経済的に余裕のあるビジネスパーソンも加わってきます。
また、インテリアの世界がクラシック様式からモダンやコンテンポラリーに重心が移っているのは、1950-70年代あたりにつくられた家具の値段が相対的に高い事実からでもわかります。
注意していただきたいのは、以上の記述は、あくまでも全体的な傾向の話であって、ある特定のアーティストやデザイナーにあてはまることではないです。さほど名の知られていないアーティストなどの作品が、時代区分で市場価値として不利になったり有利になっていると指摘しているのです。
日本での再生古民家を想起した
この夏、日本で何軒か再生した古民家を訪問しました。そこでインテリアにある共通した選択がありました。もともと天井と鴨居の間には何もなかったのが、そこに欄間を設置して良い雰囲気をつくっていたのです。
そしてオーナーに尋ねると「オンラインで安いのを買った」と語ります。実際、オンラインで検索してみると、もちろん高い欄間もありますが、意外に安い欄間もあります。
なるほど、日本の古民家再生のなかでこのようなアンティークの使い方がされているのか、と知ったのですが、今週、前述のイタリアのアンティーク市場を見ながら、この日本の欄間市場を思いだしたのです。
クラシックなアンティークが相対的に安いからこそ、新しい使い方が今後、生まれていく可能性があるはずです。
時代や地域を超えたキュレーションが求められる
これまで述べたことを踏まえたとき、今、我々に問われるのは、まったく異なる時代や地域のデザインやアートをどう組み合わせるか?の力だと思いました。どこかのカテゴリーに従うのではなく、どのように数百年前のものと今のものを繋ぐか?です。
例えば、バロック様式と20世紀後半のポストモダンの間にある考え方をベースにする。また、直近でいえば、1970-80年代にあった近代大量生産の考え方の限界、1990年以降のITを推進してきた考え方の限界、これらの2つに共通点を見いだす、といったことになるでしょう。
実のところ、こうした「混合」のあり方は長いあいだ、世界のさまざまなところで繰り返し議論されてきたことです。
しかしながら、混合のあり方は常に異なるため、それぞれの時に応用問題として目の前に現われてきます。だからか、わりとすぐ、この混合を目指すことを忘れてしまい、地域や時代を軸にまとめようとしてしまいます。
よって課題は、この誘惑をいかに断ち切るか?ですね。
冒頭の写真©Ken Anzai
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