「主戦場」は誰のため? あるいは「主戦場」で「対話」は可能か
お疲れさまです。uni'que若宮です。
昨日、こんなイベントに参加してきました。
Generation11 Picturesの川合沙代子さん、GRiDの山口若葉さん、フードクリエイターのMiica Franさんが仕掛けている「グリッド ルーフトップ・シネマ」というプロジェクトですが、会場ではクラフトコーラや塩ちゃんこ鍋(!)が振る舞われるなど、とても温かい雰囲気の素敵なイベントでした。
「主戦場」は”誰”のための戦場か
映画「主戦場」はあいちトリエンナーレの余波もあって、いろいろと話題になっていた映画なのでちょうど気になっていた映画でした。
ネタバレになるので詳しくは書きませんが、ざっくりいうと、「慰安婦」の問題について、日本の責任を問う歴史学者・ジャーナリストと日本に責任はないとする人たち(映画中では「歴史修正主義者」)の双方の主張が交互になされ、噛み合わなさの中で詭弁や政治による歪曲・介入を暴いていく映画となっています。
政治的には色々な見方がありますし、ここはCOMEMOなので私的な主張は極力おさえて書きたいと思いますが、僕が映画をみておもったことは3点でした。
1)「慰安婦」の実態にあるグラデーション
映画では慰安婦問題のデータや事実関係をていねいに追っていくのですが、正直、僕自身超ざっくりとしか「慰安婦」について理解していなかった、ということに気付かされました。
強制連行はあったのか/自主的についていったのか、性奴隷か/報酬目的の売春だったのか、売春ブローカーの仕業か/政府関与はあるか、などなど。複雑な論点が絡みあって、しかし、すべてにおいて噛み合わずに議論がされていました。
おそらく実態としては、双方の主張にある程度正しさがあり、強制連行された人も自主的についていった人も、性奴隷だった人も報酬目的だった人も売春ブローカーの仕業も政府関与も多かれ少なかれあり、その「ないまぜ」が「慰安婦」というものが指し示す全体だったのではないでしょうか。
しかし、双方ともにその実態の一部を取りざたして極論をかざしがちです。お金を受け取っていたケースもある、とか、兵士と仲良くしていた、というのを根拠に「慰安婦」はいなかった、としたりあるいは逆に一人の慰安婦のケースを拡大適用して「慰安婦」はすべて性奴隷であり20万人もいた、としたり。実態にはグラデーションがあるものを両極に単純化して議論するため、噛み合わない。
2)「自己責任」による責任逃れ
「慰安婦」はいなかった、とする人たちの主張の最大の根拠は、「慰安婦」とされる方たちが自主的に行動した、というものです。
僕はこの議論を聞いているときが日本の悪いところが出た感じで、一番気分が悪くなってしまいました。日本人はどういうわけか、この「自己責任」という免罪符を使って人を傷つけがちです。映画の中でも、
・酷く貧しい少女をお金で釣ったり、逃げ道がないようにしておきながら、「強制」ではなく「自主的」について来た、という。
・放送局の予算を握り圧力をかけるが具体的な指示はせず、「自主的」に番組を改変させる。
・教科書は気に入らないものは「検定」で落とすぞ、というプレッシャーを与えながら「自主的」に不都合な事実を削除させる。
などの例がありました。そう、ポイントは「自主的」なのです。手は汚さずに崖のギリギリまで追い詰めるけれども突き落とすことはせず、自分で飛ばせて責任を逃れるのです。この手の構造は本当にたくさんあり、
・明らかに精神的につらい配置換えをして「自主的に」退職をせまる
・断れない状況をつくっておきながら、「自主的に」二人っきりの食事にきた、ホテルにきた、という
など現代のさまざまなハラスメントに共通していて、日本人のこういう狡猾さが僕は本当にきらいです。
3)「慰安婦」被害者をなおざりにした「戦場」
そして強く感じた憤りは、双方ともが(それはこの映画自体にも感じたのですが)なにかちがう戦いのために「慰安婦」という戦場を利用している、ということです。「慰安婦」の被害者や当事者の心情、それへのケアや反省、ということを離れて、「国益」とか「イデオロギー」のための「ネタ」としてそれを使っている。こういうことも今でもよくあり、たとえばtwitterでの炎上なんかがそうです。炎上したツイートをみてみると、当事者の利害や心情と関係なく、文字通り当事者を踏みにじりながらその上を「戦場」として空爆をし合う、ようなことがままあります。
「主戦場」で「対話」は可能か?
たまたまこの日、宇田川先生の「対話」に関する本を行きすがら読んでいました。
(ナラティブ・アプローチという手法を使って意見やトポスの異なる他者と、その他者性を前提にしてどう関係性を変えていくか、実例も交えながら、実践的で、なにより誠実な名著だと思います)
そのせいもあるのですが、僕は「主戦場」をみながら、この極論のすれ違いと狡猾な責任逃れ、そして代理戦争が跋扈する「慰安婦」という「主戦場」で、「対話」はなお可能なのか、ということをずっと考えていました。
僕の映画を見たあとの結論は、この「主戦場」ではそれは無理ではないか、というものです。
なぜなら、この映画で一番ひどいのがおそらく、「そのような対話のメカニズムをわかっているくせに、意図的に相手を理解しようとしない人たち」だからです。彼らは「溝」を見ることも「観察」することも拒否し、のみならず、(修正主義にみるように)溝を「見えない」ものにしようとすらします。
僕自身かつて、「対話」の重要性を知っていて・だからこそ・「対話」を避けるような上司に出会ったことがあります。何度話をしに行ってもそれにはあれこれと理由をつけてとりあわず、一方で周囲にあることないこと悪評を(あたかも本人は被害者のように)言いふらし、孤立を作り出します。彼らは溝に橋をかけようとするどころか、むしろ溝をつくりだし、孤立させ、その溝に「自主的に」飛び込むのを待つのです。
そんなの本末転倒だし、組織のためにならないじゃないか、とあなたは思うかもしれません。その通りです。そのようなやり方は徐々に組織を蝕み、長期的にはいずれ失脚します。しかし、凋落までに長い時間がかかります。彼らは狡猾なのでそれまでの間は気づかれず、船が沈没する間際になって間違いだったとみんなが気づいたときには、いち早くボートで逃げ切ってしまっていたりします。
このように「対話」の必要性を知らないわけではなく、それを拒否する人たち(不思議とこれが身についている人たちは蝋人形のように強張った、お面のような顔をしています)とは、対話は難しいのではないか、そう考えながら帰ってきました。
「対話」への覚悟と逃げること
「対話」には限界があるだろう結論づけた帰りの電車で、『他者と働く』を読み切ったのですが、この本の「おわりに」を読んでまた深く考えることになりました。
そこには宇田川さんの「対話」に対するはるかに深い思いと覚悟があったからです。それを読んで僕も改めて「対話」への希望は捨ててはいけないし、捨てずにいきたいな、と思いました。対話を拒む彼らにも、なにか彼らなりの理由があり、その苦しみがあるかもしれない。だからそれを見ようとすることを続けていこう、と。
とはいえ。
袋小路にはいってしまい、「対話」を拒絶されるような場合には、緊急避難としてそこから逃げることも大事だと僕はおもっています。いじめやパワハラや虐待や、日本ならではの悪い閉塞を打破したり変えるにはとても時間がかかるからです。それまで体や精神が持たないこともありえます。
よく「フィルターを選ぼう」という話をします。人はそれぞれ、その人らしい価値をもっています。しかし、上司や取り巻く環境などによっては、フィルターで目詰まりしていて、その価値が殺されてしまうことがあります。
そういうときにはそのフィルターを捨てて、フィルターを変えてみてもいいのでは、と思うのです。世の中にはInstagramよりはるかに色んなフィルターがあります。あなたの色をもっときれいにしてくれるフィルターだって、きっとあります。「対話」の可能性を信じつつも、それに向き合うことに疲弊してしまったなら、そんなフィルターには固執せずに捨ててしまって、違う場所でカラフルに輝いた方がよいときもある。
願わくば、捨てなくてもいい社会でありますように。
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