「競合」し「嫉妬」する「似たもの同志」の逆説 〜SDGsのための「切磋琢磨」と「応援」
お疲れさまです。uni'que若宮です。
今日はちょっと「競合」と「嫉妬」について書きたいと思います。
ビジネスにおける「競合」意識
自社でも事業をやりつつ、他社の新規事業のメンタリングをすることも多いのですが、最近徐々に違和感が出てきているのが、「競合」という考え方です。
大前研一氏の『The Mind of the Strategist』に始まり、3C分析(Customer(市場・顧客)、Company(自社)、Competitor(競合))として競合を分析することはビジネスの定石とされてきましたし、企業は「競合に打ち勝て!」とシェア争いをしてきました。
しかしこうした「競合」との競争意識は、(とくにSDGsな)経営においてはどんどん馴染まなくなって来るのではないでしょうか。
というのも、よく考えてみると「競合」って実は「競争相手」ではなくむりそ「似たもの同志」っていうことではないかと思ったからです。
たとえば弊社Yourから立ち上がった更年期のフェムテックサービスyorisol(よりそる)がいま分社化へ向け頑張っているのですが、
去年くらいから急速に「フェムテック」が盛り上がってきて、更年期に注目したサービスや事業も出てきています。そうした他社の登場に際し、僕たちは同じ領域の他社を「競合」と捉えて競争することを極力しないようにしています。
とくに0→1の黎明期からの市場創出型の事業の場合、小さな市場を食い合ったり牽制し合ったりするよりはまずはその市場や文化を広げるために「協力」していったほうがよいからです。
また「競合」企業というのは見方を変えれば、そもそも社会の現状について多くの人がスルーしている同じような問題に気づき行動を起こしている。これは紛れもなく「似たもの」であり、もっといえば数少ない「社会変革の同志」はないでしょうか。
にも関わらず、「競合」としてつい「敵対視」してしまうのはなぜなのでしょう?
「似たもの」ほど嫉妬してしまう逆説
理想としてはわかるものの、「似たもの」に対する感情というのはいうほど簡単なものではないようです。
ビジネスにおいてだけではなく「似たもの」に対するcomplexな感情に「嫉妬」というのがあります。ある集団、たとえば学校のクラスとかにおいて、全く立ち位置が違う人とか自分とはかけ離れているなーと思う人に対してはある程度寛容でいられたり、その成功を素直に喜べたりするのに、自分と「似たもの」だと思う人が突然もてはやされたりするとなぜか素直にそれを喜べなくなったりすることってありますよね?
で、結果最近まで「うちら気が合うよねー」とつるんでいた人が一転、憎しみの対象になってしまったりする。
僕自身も時々そうした「嫉妬の罠」にハマりそうになることがあります。たとえば「アート思考」というので本を出していると、知人のイベントに「他のアート思考の人」がフィーチャーされていたりするとちょっと複雑な気持ちになってしまったり、あるいは友人が出した本がバカ売れしていると一瞬素直に喜べなかったり。これは近しい人ほどそうだったりするし、自分が本を出す前はそんなこと思いもしなかったのに、です。
またこうした「嫉妬」感情はある種の「悪い同調圧力」にも繋がっている気がします。「出る杭は打たれる」も、つまりは同じ母集団にいる「似たもの」に対する「嫉妬」ではないでしょうか。
根っこにあるのは「独占」意識
どうしてあんまり似ていない人よりも、本来共鳴度の高いはずの「似たもの」の方にネガティブな感情をもってしまうのか、と考えていて、一つ気づいたことがあります。
「競合」と「嫉妬」に共通すること。
それは「独占monopoly」です。
ビジネスにおいて「競合」という場合、そこには「シェア争い」という考え方があります。市場が限定的で、そこにいる「ユーザー」の数や「ユーザーが支払うお金」が一定であればビジネスとはゼロサム的な「奪い合い」になります。「似たもの」とは「ターゲット」や「ポジション」が被りやすいため、「同じ席の奪い合い」のような感情が出てしまう。目の前にいる人が、自社の「ユーザー」になるか、他社の「ユーザー」になるか、それが争いになってしまう。
「嫉妬」も似ています。集団の中で成功のポジションや「席」が限られていると思いこんでしまったり、恋愛でもある同一の人を他者から「独占」したいとおもうと「嫉妬」が発動します。
「独占」から「協働」へ
「独占monopoly」を目指す世界の原理は「exclusive排他的」です。
これまでの社会は「能力主義」の競争原理であり、みんなでイス取りゲームをしていました。他人を押しのけて席を奪い合っていた。
こうした経営を続けることはSDGsが目指されるこれからの世の中では、時代遅れであるどころか、むしろ害悪にすらなっていくかもしれません。
どうしたら「似たもの」に「競合」や「嫉妬」せず、「協力」し「応援」し合えるか?
僕なりに考えたポイントは
1)切磋琢磨し、「ちがい」の解像度を上げること
2)固執せず手渡し、応援し合うこと
の2点です。
1)はどういうことかというと、「似たもの」が「同じもの」に見えてしまっているから「同じ席」を取り合ってしまうのですよね。でもたとえば同じ領域で事業をしていたりしても提供している価値や特徴は本当はちがう。アート思考で「いびつさ」や「ユニークバリュー」についてもよく話すのですが、「どうやって差別化するか?」ではなく、「そもそもちがっている」のです。
ちがいがあれば、わざわざ奪い合わなくてもそれぞれのちがいに惹きつけられていくものですし、無理に競うよりその人にはない自分の魅力を磨いた方がいいはずです。「似ている」と思っているのは単なる思い込みでこういうちがいがあるな、と分かれば「取る」「取られる」という疑心暗鬼から脱出することができます。
ただ、それは「みんなちがってみんないい」というよくある美辞麗句とも違います。
↓こちらの記事の中の有森さんの言葉が色々示唆が多いのでぜひ読んでみてほしいのですが、有森さんはこんな事をおっしゃっています。
SMAPの「世界に1つだけの花」には「ナンバーワンにならなくてもいい もともと特別なオンリーワン」という歌詞がある。
2002年から知的障害者を支援するスペシャルオリンピックス日本にかかわるようになったのですが、ことあるごとにこの曲が「ふさわしい歌」として象徴的に流されていることに、とても違和感を覚えました。
知的障害者だって勝ちたい人はいます。曲がすてきなのはよく分かります。でも「1番にならなくてもいい」というのは、そもそも他人が決めることではありません。
しかし一方で、有森さんはオリンピックでのスケートボードについて、こんなふうにも語る。
失敗を恐れず理想の技にチャレンジした仲間の勇気をたたえ、慰め支え合う。10代の選手たちのその姿はとても自然で、国を背負って戦うといった悲壮感がまるで感じられなかった。競い合うけど争わない。五輪とは何かという原点を改めて考えさせられた場面でした。
これを読んで僕が思い出したのは「切磋琢磨」という言葉です。「切磋琢磨」というのは辞書で引くと
学問や人徳をよりいっそう磨き上げること。また、友人同士が互いに励まし合い競争し合って、共に向上すること
と書かれています。
「切」は骨や象牙を切ることで、「磋」は研ぐこと、「琢」は打ち、叩くこと、「磨」は磨くこと。一つのやり方ではないというのもポイントで、素材に合わせていろんなやり方を駆使して価値を高めていくことなのですね。そしてそれが「友人同士が互いに励まし合い競争し合って、共に向上する」ことに繋がる。競合他社にしても、争ってはいけない、とか競争に意味がないということではありません。あくまで、それを通じて自分の価値を高めていく「切磋琢磨」の「友人」として捉えるべきだと思います。
そうして「ちがい」や「自分」らしいあり方を知れば、2)「固執せず手渡し、応援し合う」ことが出来るようになる気がします。自社の「ユーザー」や「顧客」候補がいたとして、もしニーズを聞いて「他社のサービスの方が向いているな」と思えば紹介してあげる。旧来のビジネス感覚では、「顧客を逃した!売上減!」とネガティブに評価されるかもしれませんが、社会全体として考えれば価値提供と受益が最適化された理想的な姿ではないでしょうか。
そんなこといっていたら売上が伸びない、と思うかも知れませんが、果たして売上が伸びないことはそんなにいけないことでしょうか?同じエリアに競って店舗を出して食い合って、結果売上減を気にして24時間営業することが果たしてよいことでしょうか?必要のない出店が地球の負荷を増やしてはいないでしょうか?僕には売上拡大のための過剰な競争はwellbeingでもサステナブルでもない前世紀的なことのように思えます。
起業家の事業プランの相談でも思うことがあるのですが、自分が起こそうとする事業に先行プレーヤーがいることもあります。すでにそれを解決出来るアイディアが社会に実現されているとしたら「先を越された!」と悔しがるより、「もうあったんだ!」と喜ぶことだってできます。その上で、「似てる」けどまだ実現されていないことがあるならそこを自分がつくればいいし、まったく同一でわざわざ事業をつくる必要がないならその人を応援する立場として社会を変えていくことだってできます。(大企業がベンチャーの事業を後から丸パクするケースも今だにみますが、そんなことをするより「応援者」になってほしいものです)
「増収増益を至上命題とする消費拡大資本主義」の中にいると、すぐこうした価値観にシフトするのはむずかしいかも知れません。しかしもしあなたが、「似たもの」に「競合」や「嫉妬」を抱き憎しみをもってしまうとしたら、拡大資本主義に毒されすぎている気がします。
そうして手渡し合うことができれば、過剰な競争とそれによる疲弊もなく、それぞれが生かし合う社会やビジネスをつくっていけるのではないでしょうか?
「似たもの」に対し「競合」や「嫉妬」せず、「切磋琢磨」し「応援」し合えるか?というのがSDGsな経営への試金石な気がしています。
↓合わせて聴きたい「共鳴のマーケティング」