チャーチル的な思考が必要なとき
さまざまな騒動が続き、傷を負いながらの東京五輪の開幕。
コロナ禍で開催が危ぶまれる中で、控えめながらもいくつもの斬新な演出で世界中の「観客」を驚かせ、喜ばせた開会式にたどり着けたことは、素晴らしいことだと思う。この東京五輪が、コロナ禍の苦しい時期から、それを乗り越えたあとの新しい時代への転換点として記憶されるとすれば、有意義なオリンピックとして記憶されるかも知れない。
他方で、開会式が開かれた国立競技場周辺には、数はそれほど多くはなかったかも知れないが、開催に反対する人たちが集結して、プラカードを掲げて五輪中止を訴えていた。ここで留意すべきは、大企業のスポンサーや宣伝、そしてビジネスとスポーツマンシップが混合する大規模なオリンピックというイベントが、すでに以前から批判の対象となっていたということだ。
このあたりについては、自らもサッカー選手として五輪出場経験を持つ、米国パシフィック大学教授のジュールズ・ボイコフ氏の著書、『オリンピック ー反対する側の論理』(作品者、2021年)でも詳しく書かれている。今回の東京オリンピック2020に限らず、これまで長い間、オリンピックの商業主義かと、スポーツマンシップからの乖離に対しては批判がなされてきた。いわば、資本主義批判、商業主義批判として、オリンピックが巨大なビジネスとなっていることへの強い抵抗が見られてきたのだ。
他方で、巨大なイベントが国際政治や国際ビジネスと連動することは、現代の世界において不可避なことであるかもしれない。問題は、われわれ日本人がこれをどのように受け止めて、どのように実際の東京オリンピックでその批判への応答を示していくかであろう。
その意味では、無観客での開会式となり、またいくつものスポンサー企業がコロナ禍での自粛的な措置として、過大な広告を控える動きを示したこと、そして開会式が当初の想定よりも控えめな演出となったことは、オリンピックへの新しいアプローチを期せずして示す結果となったともいえる。そのようなことを考えると、この2021年夏のオリンピックは、高度成長期で右肩上がりの経済であった1964年の夏のオリンピックとは、大きく異なるコンテクストのなかに位置づけられるべきであろう。
「終わりのはじまり」。
日経新聞のこの記事にある言葉に目がとまった。ここでは、「五輪の『終わりの始まり』となるかもしれない」という文脈で、この言葉が用いられている。すでに述べたような商業主義や、五輪開催をめぐる腐敗やスキャンダルは、五輪というものの存在意義を失わせていくのだろうか。
他方で、この「終わりのはじまり」という言葉は、チャーチルの有名な言葉の一部として、しばしば参照される。すでに私自身がほかのところで論じていることだが、ウィンストン・チャーチル首相が1942年の北アフリカのエル・アラメインの闘いのあとに、次のように述べている。
これは終わりではない。終わりの始まりですらない。しかしおそらく、始まりの終わりであろう
すなわちこの戦闘でナチス・ドイツのロンメル将軍率いる強靱な軍隊に勝利を収めたことで、チャーチルは第二次世界大戦が終結に向かうと確信した。
とはいえ、それは直線的なものでも、簡単なものでもない。長く苦しい闘いが続くことを予期している。したがって、この闘いをもって、チャーチルは戦争の「終わり」が到来することはないと考え、さらには「終わりの始まり」ですらないと考えた。戦争の初期の時期、すなわち「始まり」の時期が終わりつつあり、次のステージに進むことを予期したのであろう。
コロナ禍の最中にあるわれわれの現状を考えても、同様のことがいえるのではないか。すなわち、緊急事態宣言を繰り返し、ワクチン接種が進んでも、コロナ禍が「終わる」わけではない。まだまだ長く苦しい、コロナ禍での生活が続く。ただし、コロナ禍での本当に大変な最初のステージは終わりつつあるのではないか。いわば、「始まりの終わり」といえるのではないか。
五輪という巨大な商業イベントが、今回の東京五輪によって「終わりの始まり」となるのだろうか。私はそうは思わない。新興国を中心に、オリンピックを国威発揚の機会と捉え、健全なかたちでなナショナリズムが発散されるのではあれば、それはむしろ好ましいことと捉えるべきであろうし、またこれからも継続するものと考えるべきであろう。
「1940年」とも、「1964年」とも異なり、この「2021年」において、われわれ日本人は、巨大な東京五輪という商業イベントに頼って経済成長を期待し、また国威を発揚させることはあまり適切ではない。むしろそうではなくて、日本がこの五輪を通じて、われわれが大切にする価値を世界に示し、また依然としてコロナ禍で苦しむ人々に希望を与える機会に活用するべきであろう。そしてすでに開会式では、数々のスキャンダルに見舞われて、さまざまな批判に直面しながらも、その一端を示すことができたと思う。
われわれは聖人ではない。また、国際政治は清く美しい道徳で溢れているわけでもない。そして、資本主義とはそもそも、アダム・スミスが『国富論』で示しているように、人間が本来的に擁する利己心をむしろ公共善のために活用することを前提にしているのだから、資本主義国がホストとして開催するオリンピックが商業主義と結びつくことも否定することはできない。それにも拘わらず、オリンピックを通じて人間としての美徳を示すことができ、それに一定の価値があると考えるからこそ、世界中の人が五輪の映像を眺めて、ときに感動を体験するのであろう。
確かに、コロナ禍の中で東京五輪を中止にするべきだという主張にも、ある程度の合理性と説得力が感じられる。だが、東京五輪を中止にすることで、ただちにコロナ禍の終息に向かう分けでもないし、そのことが人々に希望を与えるわけではない。
それが意味することは、挫折である。
もしも五輪の中止によって、世界中に広がるコロナ禍を終息に向かわせる力がないのであれば、「挫折」というメッセージを世界に発することの責任の重さを考えるべきであろう。むしろ、コロナ禍の中でも、われわれが節度と、忍耐と、規律を守ることによって、本来得られるべき喜びを得て、本来実現できるべき行動を実行できるという模範を世界に示すことこそが、必要なのではないか。五輪中止を主張する者は、それによってどのようなメッセージを世界に送ろうとしているのか、そしてそれが世界にどのような心理的な影響を及ぼすことになるのか、真摯に問うべきではなかったか。
チャーチルが戦争を継続しようとしたときにも、少なからぬイギリス国民が、それに抵抗した。むしろ戦争を嫌悪して、ナチス・ドイツのヒトラーと和解して、休戦協定を結ぶべきではないかと考えた。たとえ、ヒトラーが支配する世界であったとしても、戦争よりは平和を選ぶべきではないか。そのように論じる者たちは、おそらく、「平和」という価値をあまりにも重視することによって、そのほかの重要な価値、たとえば、自由、民主主義、法の支配、人権、マイノリティの擁護といったものを、あまりにも軽視したのではないか。
チャーチル的な思考から、われわれはこの五輪を通じて、コロナ禍という苦しい闘いにおいて「始まりの終わり」を経験していることを認識するべきであろう。五輪によって、直ちにコロナ禍が終息することはない。
むしろ、それによって、本当の意味でコロナ禍の「終わり」に向かって前進するための、かつてチャーチルが示したような希望を感じることが大切であると思う。
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