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お世話になっております。メタバースクリエイターズ若宮でございます。

今日は「work」と「play」について改めて考えてみます。


「playしないでworkしなさい!」2つは相反するもの?

workとplay。
「仕事」と「遊び」と訳すこともできますね。

拙著『ハウ・トゥ・アート・シンキング』の中でも触れていますが、「仕事」と「遊び」についてはだんだん捉え方が変わってきている気がします。

昭和の時代は「遊んでないで仕事しなさい!」というようによく言われました。これは「仕事」と「遊び」が相容れない、背反するものとして考えられてきたことを端的に示す言葉です。

「遊ぶ」と「仕事」ができなくなる。だから遊ぶな。playはworkの邪魔だと捉えられていたわけです。

しかし最近では、創造性やwellbeingの研究のなかで、「仕事」の捉え方も少しずつ変わってきているようにも思います。

アート思考においても「あそび」という概念を重要視しているように、クリエイティブに仕事をしている時にはworkとplayが融合している感覚があり、僕もその状態を目指しながら仕事をしています。

農作業でも、コンピュータの操作でも、強制された労働としてやれば苦役だ が、自由な遊びとして創造的に取り組む限り、それは喜びだ。
言いかえれば、人生、即、芸術。
― 岡本太郎

芸術においても「work」と「play」どちらの用語も使われます。
そしてアートにおいては「work」と「play」は相反する概念ではなく、むしろ相補的なものです。

例えば、「work」には「作品」という意味があります。そして「play」というのは「演奏する」や「上演する」などの意味を持ちます。アートの領域ではこの2つの言葉は、work(作品)をplay(演奏、上演)する、というように相反するどころか、相補的に組み合わせて使われたりします。

playしてないでworkしなさい!ではなく、playしないとworkをちゃんと体験できないわけですね。


workは固まっていて、playは生き生きと流れる

ここでworkとplayという概念の違いについて考えてみます。

両者を比較すると、いくつかの観点でたしかに真逆のような性質がある気がします。

①ゴールとプロセス

まず、work(仕事)には「完成」があります。play(遊び)にも終わりがないわけではありませんが、ある絶対的な一つの状態を目指しそれが終わったらもうやらない、というよりは、何度も繰り返し楽しむことができます。

このことと関連して、workはゴール(目的、終わり)主導で進む活動だということができます。それ対して、playはそれがまさに起こっているプロセス自体に価値があります。

②静と動

「完成がある」というところから、workは「静」な特徴を持ちます。仕事が完成するので、そこで運動が止まるわけですね。

例えば、音楽「作品work」として典型的なのは、楽譜です。これは明確な形で完結していますよね。一方、演奏playの原初的な形は即興演奏で、これは楽譜なしでその時の感覚で演奏するものです。即興演奏は(たとえ録音されたものとしても)あまり「作品」とは言われません。

workは完結して固められfixedており、そこからいつでも同じ(厳密には同じではないわけですが)ものが再現性をもって取り出せます。playは固定されず自由度が高く、むしろ毎回ちがうことに価値があるのです。

workは静的に完結しており、固定された形で存在できるのが強みですが、その分、冷えた感じになることもあります。だからそれをplayすることによって動的にし、生き生きとしたものにする必要があるのです。両者が揃うことで、作品は初めて体験されます。


③責任と自由

最後に、workには責任が伴います。playは自由です。これはある意味では価値を誰に対して生むか、ということでもあります。

workは誰かに対して責任を持ち、価値を提供して他者を喜ばすことができますから、その対価としてお金を得ることができます。

一方、playは基本的に自分が楽しむための行為です。その分自由で責任はありませんが、現代社会では、遊びはお金をもらうというより、お金を払うものになりがちです(ただし本来の遊びは必ずしもお金を払うものではないのですが)。

「playしないでworkしなさい!」という時、仕事の責任を負っているのだから自分が楽しむんじゃない、というような感覚があるかもしれません。仕事というのは「滅私奉公」のように自分を置いて他者に尽くすのだと。

しかしアートにおいてはしばしばそうなように、自らが本当に自由にplayすることで初めて他者を感動させる価値を生むこともあります。両者は必ずしも背反しないのです。


まとめ

以上のように、workとplayは、ある観点ではたしかに真逆のベクトルをもっています。

「遊んでないで仕事しなさい」というように、playを排除する形で行われると、固まったやり方の良さもある反面、生き生きとした活動で無くなってしまうかもしれません。こうしたworkは、重責に耐え、自由度無く、眉間にしわを寄せてやるものになります。

しかし、それではパフォーマンスが出なかったり、クリエイティビティが生まれにくいところもある。これからはworkをplayするという感覚がより大切になってくるでしょう。

ビジネスに即興など演劇的な知見を活かそう、というのもworkとplayの性質からも考えると「ロープレに役立つ」とか形だけの輸入ではなく、本質的な学びができるかもしれません。


アート思考で「自分起点」や「あそび」を重視するのもこうしたわけですが、ただし一方で、play側にとってはworkの側面も必要です。芸術家が作品を作る時、基本的には自分のためにつくっているわけですが、それが(副次的にであれ)誰かを感動させる力を持たなければ良い作品とはいえないでしょうし、観客のことを無視し独善的になりすぎると、単なるマスターベーションになってしまいかねません。

playしつつも完成を目指し、それをもって誰かを喜ばせる、playにworkのモーメントがあることでアウトプットがよいものになるのではないでしょうか。


弊社メタバースクリエイターズは、クリエイターのクリエイティビティが最大化されることを目指しています。

クリエイターの制作がいわゆる「受注案件」のようになってしまうと、冷えたworkになってしまいます。そこにはplayの感覚も必要です。

「仕事」には再現性が求められ、また「仕事は属人化するな」と言われてきました。しかしそうした標準化・規格化をしすぎると人間的創造のパフォーマンスは低下します。経営の神様ドラッカーは50年前にこう指摘しています。

仕事は均一に設計しなければならないが、労働には多様性を持たせなければならない。スピード、リズム、持続時間を変える余地を残しておかなければならない。仕事の手順も頻繁に変えなければならない。仕事にとって優れたインダストリアル・エンジニアリングであっても 、人にとっては最悪の
ヒューマン・エンジニアリングとなる。

ドラッカー『マネジメント』

一方で、個人的な趣味に走りすぎるとただのplayになってしまい、完成もせず金銭的対価を受けられないことになり、これもまたサステナブルではありません。

重要なのはworkとplayを対立する概念ではなく相補的なものとして捉え直すこと、そしてその上で生き生きと遊ぶように仕事できる環境をつくれるよう工夫を重ねています。


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